FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 空華 24

大宋国の福建省にある芙蓉山の霊訓禅師が帰宗寺の至真禅師に師事した際に質問した。

霊訓禅師問う:仏(真実を得た人)とは、どの様な人の事を言うのでありましょうか。

至真禅師言う:自分はこれから「仏とは何か」と言う事をお前に言おう。しかし私の言葉を聞いた時に、お前が本当に私の言葉を信じるかどうかちょっと疑問だ。

霊訓禅師問う:師匠からの真心こめた言葉を、どうして信じない事がありましょうか。

至真禅師言う:お前自身がまさに仏である。

霊訓禅師問う:その仏をどのように保持していったらよいのでしょうか。

至真禅師言う:自分の眼がひょっとしたら見間違いをしているかもしれないと言う事を感じているならば、この世の中にあるかどうかわからないというふうな現象はすっかりなくなってしまって、真実の世界そのものが現れてくる。 



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
霊魂が永遠の世界で生き続けるという観念と、瞬間瞬間の現実に生きると言う、その具体性と言うものとの区別がぼやけてくるような・・・。釈尊は霊魂の不滅という事は否定はしないんじゃないかと思うんですよ。だけど永遠の生命とか、霊魂不滅とかと言う事を表立ちにしてしまうと、じゃあ現実との遊離した状態をどうするかと言う問題が出て来るので、そういう問題に関して妥協的に言っているのかなあと言う感じもするんですが・・・。

先生
あきらかに釈尊の生きていられた時代にもそういう事情があったと思います。それはどう言う事かと言うと、人間がこの世の中の問題について考える場合に、一番最初に生まれて来る考え方と言うのは霊魂というものがあって、この世の中が一つのまとまりがあって、神があってと言う風な考え方なわけです。どの民族でも最初は、そういう考え方が生まれるわけです。それと同時に、そういう考え方の裏側として「どうもおかしいんじゃないか、我々の日常生活はそんな結構な形にはなっていない」と言う考え方も、どこの民族にもあるわけです。

釈尊もそういう問題のどっちが本当かと非常に悩まれたわけです。それで昔からあったバラモンの教えの様に、神があってその神がこの世の中を創ったという考え方がどうも実体に沿わない。そうかと言って六師外道の様に、そういう神と言うものは何もないんだから、出鱈目のやりたい放題をして一生を終わればそれでいいんだと言う事もどうも納得がいかなかった。

その様なところから、自分の人生を具体的に観察した結果、どうも二つの考え方が本当ではなくて、もっと瞬間的な現実的なものが我々の人生だと言う事に気づかれたと、そう言う事があると思います。釈尊の教えの中には、それ以前に栄えたバラモンの教えに対する批判もあるし、その反対の主張をしていた六師外道に対する批判の考え方も同時に存在している。そういう点では、魂を信じ死後の世界を信じると言う考え方は、どこの民族にもある一番最初に生まれてくる考え方だと、こういう事は言えると思います。

その考え方で納得できる限り、まあその考え方を信じて生きて行くという事になるわけですけれども、そういう考え方がどうしても信じられないという人もいるわけですよ。そういう人にとって仏道が必要になってくると、こういう事になると思います。つまりそういう考え方を信じていられる間は、その考え方に従って一所懸命に生きていいわけでありますから、まあ無難に生きられるわけですよね。

ところがどうもそういう考え方が信じられなくなると、えてして今度は軌道を外して、本人自身が、どうしていいんだか分からない様な苦境に追い込まれてしまう。だからそこからもう一度救い出さなければならないという事情が人間には常に出て来るわけです。そういう問題の解決として、仏道が主張されたと、そう見ていいと思います。


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-