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正法眼蔵 空華 23

張拙秀才は石霜慶諸禅師の在家の弟子であった。真実を得た時に頌(詩)をつくって言う。

張拙秀才言う:
仏教が主張する非常に落ち着いた境地も、我々の日常生活も結局は空華(実在するかどうかわからない現象)でしかない。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
涅槃(身心の安定した至福の境涯)とは、阿耨多羅三藐三菩提(最高にして均衡のとれた正しい真実)である。釈尊やその弟子が住まっておられる境地が「涅槃」であり「阿耨多羅三藐三菩提」である。迷いの境涯(非常に落ち着きのない苦しいものとされている生き死に)と言うものは、真の人間の実体そのものである。

この涅槃の境涯や迷いの境涯もそれぞれ実在ではあるが、別の見方をすれば空華(実在するかどうか解からない現象)に他ならない。そしてこの実在するかどうか解からない現象にも、根や茎や枝葉もあり、花や果実もあれば、輝きや色彩と言う様々な様子があるけれども、それぞれの様々な様子と言うものはいずれも実在するかどうかわからない現象の現れに過ぎない。しかしながら、その実在するかどうかわからない現象というものも、必ずそれなりの成果を結ぶものであり、その様な成果を生むための原因も必ず存在するのである。

現に我々は三界(欲界・色界・無色界)と言う三種類の世界の中において様々なものを見たり聞いたりしているのであるけれども、その様なこの現実の世界(欲界・色界・無色界)と言うものは、実在するかどうかわからない現象が姿を現していると言う事に他ならない。我々の住んでいる世界の実体が何かと言う事を検討してみるならば、現に我々の見ている世界そのものが我々の住んでいる世界だと言わざるを得ない。

現に我々がその中に身を置いている様々な事物が、実は実在の世界そのものだと言う事が出来るし、我々が現に見ている様々な事物、現象として現れて来る様々な姿が「三界」の実体である。その点では、我々の頭ではとうてい想像する事の出来ない様々な実在と言うものも、いずれも実在するかどうかは解からない現象として捉える事が出来るし、その現象の結果として捉える事が出来る。梅、柳、桃、李など様々な樹々が、現に我々の目の前に見えているのと実体は少しも変わらないと学ぶべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―    
    --つづき

だから釈尊の教えの主張の中には、いわゆる宗教に対する批判と反宗教に対する批判と両方があるわけです。釈尊が何を説かれたかというと、神を信じ心を信じるという事は人間にとって危険な面がある、人間を不幸にする面があると、そういう事を主張されたわけです。そうかといって神に背き心に背くという事も人間を不幸にする。その中間に立って、我々がどういう世界に生きているかをよく勉強して、その世界の実態に即して生きていくべきだという事が釈尊の教えという事になる。

心とか神を極端に重視することが人間の不幸につながるという教えの非常にいい例が今日中近東にあったわけです。キリスト教的な考え方とイスラム教的な考え方とが対立してしまうと、我々の立場から見れば「どうしてあんな殺戮が行われるんだ」という疑問しか出てこないような事実が毎日のように地球の上で起こっているわけです。何のために起こっているかと言えば宗教の違いです。

お互いに「自分たちの神が絶対なんだ」という事を信じこんでいるから、そのためには自分達の信じない人々の人命を失わせてもいっこうに差し支えない、自分たちの神に背くような人間は殺すことの方が正しいんだ、という考え方をお互いに持ち合っているから、中近東における様な問題が出てくる。釈尊はその事実に気づかれたから、神とか心とかというものを極端に信じて、それに従っていくことが人間を決して幸福にしないという事を主張されたわけです。

だからそういう点では、仏教というものの中には、いわゆる宗教的な雰囲気というものは割合少ないという事は言えるわけです。ただそういう主張の中に、この世の中の真実があるというのが仏教の主張であるし、我々の信仰があると、こういう事が言えると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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