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正法眼蔵 空華 22

張拙秀才は石霜慶諸禅師の在家の弟子であった。真実を得た時に頌(詩)をつくって言う。

張拙秀才言う:欲望(煩悩)というものは、断ち切ろう、取り除こうとすると、弊害をさらに増やす。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
様々な弊害となるというものが従来からなかったわけではない。特に極端な弊害としては、仏と言うものにこだわり、仏教界の諸先輩と同列になろうとする執着である。その様な弊害がすでにあるにもかかわらず、現に何とか欲望を取り除こうとして、頭だけで焦って考えるならば、弊害を上乗せし弊害をさらに増大させるものである。

断ち切ろう、取り除こうと努力しているまさにその瞬間は必ず欲望であり、その状態が欲望と言うものの実体である。断ち切ろう、取り除こうとする事と欲望が存在する事は、全く同じ時点において起こるのであり、別々のものと考える事が出来ないほど全く一つのものである。欲望というものは、例外なく断ち切ろうとか、取り除こうとする実体を具えているものである。

張拙秀才言う:真実を得たいと思って、一所懸命それに向かってに努力する事は誤である。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
真実に背を向けて、一所懸命それに向かってに努力する事も誤りである。真実に近づく努力と、遠ざかる努力と両方が兼ね具わっていなければならない。近づく方角とそれに背く方角と、積極的な動きと消極的な動きと、両方のバランスしているところの個々の状態が真実である。誰が知っているであろうか。ある場合には一つの考え方を持ち、ある場合にはそれと反対の考え方を持ち、一所懸命努力している実体そのものが真実であると。

拙秀才言う:世間一般の流れに従って行っていっこうにおかしくはない。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
世間一般の様々な境涯がそれぞれ非常に都合よく調和しているのであり、各人が一所懸命に相手に合わせて行こうとする努力で世の中の環境は出来上がっている。この状態を何の障害もないと言うのである。障害があるとか障害がないとか言ってみても、主観的なものの見方によってその判断の違いが出て来ているに過ぎないと捉えるべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今までの私の考え方ですと、宗教というのは自分の行為を縛ってしまうと感じていました。で、先生の「正法眼蔵」の勉強会にお邪魔するようになって、そういう事があんまり感じられなかったものですから、まあ多少ましな人間になりたいと、いわゆる仏教というと、今まで私は何となく古くさいものだと感じがしていたわけですね。そういう事で、仏教というよりは仏道という気持ちで私は今まで来ていたわけなんですが、そういう考え方はどうなんでしょうか。

先生
そういう考え方がまさに仏道修行だという事が言えると思います。ですから「多少ましになりたい」という気持ちが発菩提心です。仏道というものと他の宗教との違いがどこにあるかと言いますと、おおざっぱに言いますと今日三種類の宗教があるわけです。一つは神とか心とかというものを重点的に考えて、神や心が基準だとい考え方が一つあるわけです。これが従来「宗教」と呼ばれてきたものの特徴になるわけです。

ただ今日では、もう一つ別の宗教があるわけです。それは、神とか心とかというものがでたらめだという、こういう宗教がある。この世の中はすべて物で出来上がっているのだから、物を中心にして物を信ずることが正しいという宗教も今日あるわけです。そういう二つの宗教に対して仏教が何を主張したかというと、宇宙というものを基準にして問題を考え直すべきだという事を主張したわけです。

ですからそういう点では、仏教思想の基礎にはいわゆる宗教らしさというものが非常に希薄なわけです。つまり神を大切にするとか、心を大切にするとかという考え方が仏教の中では説かれていない。仏教の中で何が説かれているかというと、我々が生きているこの世界が物質的なものを基礎にはしているけれども、非常に精神的な尊いものを同時に含んでいる。我々はそういう世界の中に生きているんだから、我々が住んでいる世界、つまり法の世界を中心にして問題を考え直すべきだというのが釈尊の教えです。
                                  つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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