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正法眼蔵 空華 21

張拙秀才は石霜慶諸禅師の在家の弟子であった。真実を得た時に頌(詩)をつくって言う。

張拙秀才言う:
感覚を司る六種類の器官(眼・耳・鼻・舌・皮膚・神経中枢)がほんの僅かでも動くならば、その感覚器官が刺激を受けた事によって、意識というものが曇らされる。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
ここに言う六種類の感覚器官とは、やはり眼・耳・鼻・舌・皮膚・感覚中枢の六つを指すのであるが、必ずしも六種類の感覚器官が全て一斉に動くと言うのではない。前の瞬間、後の瞬間、それぞれの瞬間において、個々にそれぞれが動くのが実情であろう。感覚器官が動く、活動すると言う状態は、須弥山(古代インドの人が世界の中央に存在すると考えた非常に大きな山)の様に、非常に大きな動きであろうし、大地そのものが一斉に動くと言う形のものであろうし、六種類の感覚器官のそれぞれが具体的に動くと言う状態であろうし、ほんの僅か動くと言う事が実体であろう。

感覚器官の動きと言うものは、須弥山の様に非常に大きな動きを示すものであるから、感覚器官が動揺していない、刺激を受けていない状態と言うものの大きさもまた、須弥山と同じ様な大きさを持っていると言う事が言えるであろう。その様な感覚器官の動くとか動かないと言う状態の大きさと言うものも、宇宙の運営が、ある場合には水が雲となり、その雲がまた水となって、雨となって降って来ると言うふうな宇宙の動揺と同じ性質のものであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道を信ずると言う形には、中々なり難いと思うのですが・・・。
 
先生
「信ずる」と言う事が難しいかどうかと言うと、実情としては必ずしも難しくないと見ていいと思います。その事はどう言う事かというと、信じる事の出来ないものを信じる必要はないです。徹底的に疑っていいんです。徹底的に否定していいんです。ただ、どうしても疑う事の出来ない原則が残ると言う事、これが事実だと思います。

だから、疑って、疑いぬいて疑い得ないものが信仰だと見ていいと思います。自分の腹の底から信じられないものを、無理に信じろ、信じろと言う事が仏道の教えではない。人生を長々と生きていくにあたって「どうもこれだけは疑うわけにいかない」と言う原則が残るわけです。それが本当の意味の信仰だと見ていいと思います。


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コメント
632: by 自遊自足 on 2018/08/21 at 04:39:28

「無理に信じろ、信じろと言う事が仏道の教えではない。人生を長々と生きていくにあたって「どうもこれだけは疑うわけにいかない」と言う原則が残るわけです。それが本当の信仰だ」

この部分なんとなくわかるような気がします

633:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2018/08/21 at 22:48:07

自遊自足さん、コメントありがとうございます。

私は40代の頃、市立図書館で先生の著書「正法眼蔵提唱録」に出会い3年位かけて読み終え、それこそ「これだけは疑うわけにはいかない」と。それからは「正法眼蔵」と坐禅を頼りに生きていこうと腹の底から思いました。68才の今も自宅で仕事をし、正法眼蔵をブログで書きながら勉強し、朝晩毎日坐禅をする生活が続いています。まだまだ正法眼蔵は続きますので読んでいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

お孫さんの誕生楽しみですね。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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