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正法眼蔵 空華 20

張拙秀才は石霜慶諸禅師の在家の弟子であった。真実を得た時に頌(詩)をつくって言う。

張拙秀才言う:輝きが静かに、この世の一切を照らしている。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
この様な輝かしさのもとに、今までも存在していたところの僧堂(坐禅堂)・仏殿(釈尊その他の像を祀つた建物)・厨庫(食事等を用意する庫裡)・三門(寺院の入口の門)と言う様々な建物が新しく輝かしい姿を現して来た。この世の中の一切のものが明るく見えたと言う事が、光りというものが現実に現れた状態を示しているのであり、現実の光りそのものを示しているのである。

張拙秀才言う:賢者も凡人も、様々な人がこの宇宙の中に落ち着いた形で住んでいる。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
そのような世界の中では、凡人とか賢者とかと言う区別がないわけではない。この様な区別がないわけではないけれども、凡人は凡人で一所懸命生きているのであるし、賢者は賢者で一所懸命生きているのであるから、それらの人々の間に区別を設けて、一方が優れている、一方が劣っていると言う見方をして、それらの人々を誹謗してはならない。

張拙秀才言う:たった一つの想念も心の中に浮かんでこないような場合には、この世の中の全てがその全体の様子を現わしてくる。

張拙秀才の言葉について道元禅師が注釈されます。
瞬間瞬間の我々の心の状態と言うものは、一つであると同時に全体を包み込んだ状態である。この様な心の状態と言うものは、何かが生まれて来たと言う状態ではなく、この世の中の一切のものが全体として捉えられると言う事である。この宇宙と言うものが全体の姿として現れて来て、細かい一部分一部分について気を遣うとか気をもむと言う状態ではない。その様な状態を表現するために、たった一つの想念も生まれて来てはいないという表現をされたのである。


          
           ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき                              
質問
ちっちゃいところで囚われてゴチャゴチァやらないで、全体を見るという事で捉えていけばいいという事ですね。

先生
そういう事です。だから坐禅は何のためにやるかと言えば、頭の中でゴチャゴチァ考えないことですよ。坐禅の様な修行法がないと考えまいとしても考えるんですよ。朝から晩まで考えている。もっと勉強好きな人は寝ても考えている。寝ても考えていると「どうも昨夜はよく眠れなかった」と、こういうことになって、翌日の調子が悪いという事になるわけだけれども、人間の頭はクルクルと動き回って止まらんものなんです。

なぜ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておるかというと、体の姿を変えると脳細胞の動きが変わるんです。仏道の一つの中心はこの問題にあるわけです。なぜ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておるかと言うならば、体をそういう状態に変えると頭の動きが変わるんです。クルクルと今までまわっていた頭の動きが止まるわけ。それが坐禅の意味だし、仏道の世界に入るという事でもある。

そういう境地の中では、論理的な矛盾というものを乗り越えてしまうわけです。頭の中で考えれば矛盾しているという事なんだけれども、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておると、矛盾している両方が本当だなという事がわかってくる。矛盾している考え方の両方が本当なんだなと捉えることが出来るようになることが、仏道の世界がわかってくるということの一つの現れです。そういう関係にあると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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