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正法眼蔵 空華 19

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

空華と言う実在するかどうかわからない現象を捉えて、これは実在ではないとばかりに決めつけ、「空華」以外の花は実在だというふうに、現象と実在とを別々に分けて問題を理解しようとするならば、その学び方は釈尊の説かれた教えを本当に見聞きしているとは言えない。釈尊の説かれた教え(本来空間には現象というものは存在しない)を聞いて、本来は存在しない現象が現にある様に受けとられるのだと考えるならば、その様な捉え方は思慮の足りない証拠であり、見方が狭いと言わざるを得ない。一歩考え方を前に進めて深く物事を考えて見る必要がある。

太祖慧可大師が「現象というものも未だかつて生まれたことがない」と言われた。この様な基本的な考え方が具体的な姿を取るならば、現象といえどもいまだかつて生まれたことがないのだと言えるし、現象というものもいまだかつて消滅した事はないのだと言える。現象は元来、現象などと言う抽象的な言葉で呼ばれるべきものではないのである。また「実在しないもの」と言う言葉を使って説明するけれども、その様な実在しないものと言う事柄自体が存在しないと言う基本的な考え方もある。

現象が現れる時点、消滅した時点と言う時間的な系列の中で問題をむやみに考えて、存在するとか存在しないとかと言う遊戯的な論議をするべきではない。現象とは我々の目の前に見えている様々な色彩であり様々な姿であると言う事が出来る。我々が現に目の前に見ている様々な色彩や様々な姿は、必ずしも存在しないもの(現象)であるとも断定する事は出来ない。

そして我々が目の前に見ている様々な姿も、時点が異なるに従って青・黄・赤・白と言う様々な色彩を示し変化があるものである。一定の時点においては、一定の現象が現れる。そしてまた一つの現象が現れた時をその現象の現れた時点と言うのであって、たとえて言うならば、春には花が咲き、花が咲いている時点を春と呼ぶような関係である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正法眼蔵」の中である時はこういう事を言い、ある時は違った事を言っていながら、全体としては何か一つの流れを感じるんですが、矛盾した言葉の使い方というのはどういう・・・。

先生
うん、「正法眼蔵」には矛盾した言葉というのが常に出てきます。なぜ矛盾した形で「法」が説かれているかというと、法そのものが、現実そのものがそういう矛盾した要素を含んでいるんです。頭の中で考えるとそういう矛盾は許さないわけですから、頭の中で考えた理論からするならばおかしいと、こういう事になるわけです。ただ現実そのものは矛盾しているもの。それはどういう事かと言いますと、たとえば風邪をひいた場合に、ある場合には体を温かくして静かに寝ているのが一番という場合もある。

そうかといってある場合には、「ま、風邪ぐらいにまけちゃいけない」と思って頑張る場合もある。現実の生活としてはどっちもあるわけです。だから普通の頭の中で考えるならば「養生しなきゃだめだ」という事で「寝ているに限る」という説もあると同時に「風邪なんかに負けちゃいけないから頑張らなきゃだめだ」という説もあって、現実の生活としては両方が正しいんですよ。だからある場合には体を大事にし、ある場合には元気をつけて日常生活に、励むというふうな両方の生き方があるわけです。どっちも正しい、現実の中では。

だから現実の世界というものは常に矛盾した要素を持っているわけです。そのことが仏道の世界を意味するわけです。だから、仏道の世界が頭の中で考えられた世界と違うというのはそこになるわけです。「正法眼蔵」は繰り返し繰り返しその仏道の世界を説いておられるから、前に言われた事と後に言われた事とが頻繁に矛盾するわけです。そういう矛盾する文章をずうっと何回も何回も読んでいくことによって、現実そのものがどんなものかという事を勉強していくわけです。

現実そのものは矛盾した二つの原則を常にからませながら動いていくわけですから、そういうふうな捉え方が仏道だと言っていいと思います。だから「正法眼蔵」の中には頻繁に矛盾した文章が出てきます。その矛盾している文章の両方を読み取る事によって、仏道の世界というものがわかってくると、こういう面があります。
                              つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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