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正法眼蔵 空華 18

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

梅の花は必ず梅の木に咲くし、柳の花は必ず柳の枝に咲く。どんな花が咲くかによってどれが梅の木であるかどれが柳の木であるかがわかるのである。梅の木、柳の木を見て、その木に咲いているのが梅の花であるとか柳の花であるとかと言う区別をするのである。桃やすももの花が梅の木や柳の木に咲いた例はない。梅や柳の花は梅や柳の木に咲き、桃やすももの花は桃やすももの木に咲くのである。

実在するかどうか断定できない現象がこの空間に現れる事も、梅の花が梅の木に咲く、柳の花が柳の木に咲くのと全く同じ様な事実である。存在するかどうかわからない現象は、あくまでもこの空間において我々の眼に映るのであって、他の場所に咲いたり、他の木に咲いたりする事はないのである。空華(実在するかどうかはっきりしない現象と言うもの)の持っている様々な色合いや様々な姿を見て、実在するかどうか断定できないけれども、現象の結果と言うものが永遠に続いていくと言う事を考えてみるべきである。

実在するかどうか断定できない現象がこの空間に現れたり消えたりする様子を見て、その実在するかどうかはっきりしない現象の移り変わりを学ぶべきである。現象というものを考えて見た場合に、それが現れるとか消えていくと言う事態は、他の花が咲いたり、散ったりしていくのと少しも変わりがないであろう。実在するかどうかわからない現象にも様々な内容があると同時に、春と言う季節に関連してみても、様々な様子があるであろう。この様に春だけをとってみても、様々な内容があるところから、昔から今に至るまで様々な春があり様々な秋があったと言う事が言えるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
一般的な職業観は結果が悪ければどんなに動機がよくてそのプロセスでどんな大した動きをしても、みんなゼロになってしまうわけです。そういうあり方の中に仏道的職業観を持ってきて、途中のプロセスが大切なんだから結果がいいとか悪いとか、そのためにまた評価が変わると言う様な事は仏道的職業観ではないといっても、現在の一般職業社会の中では受け入れにくいんじゃないんですか。

先生
というよりも、仏道修行というのは、世間的な評価というものをあまり問題にしないところから始まるんですよ。だから世間的にほめられたいと思っているうちは仏道修行は始まらないんです。「これをやったら世間的に損かな得かな」というふうに考えているうちは仏道修行は始まらないんです。それじゃ仏道の立場から仕事をしているといつも失敗して途中でダメになるかというと、そんなことはない。

損得を考えず人がどう思うかを考えない時に一番いい仕事が出来るんです。損得を考えてやっている仕事というのは大きな仕事をやったためしがない。ニュ-トンが金儲けしたいために物理学を勉強したかというと、そんなことはない。ダ-ウィンが金儲けしたいために進化論を勉強したかというと、そんなことはない。損得を抜きにして一所懸命勉強したからニュ-トンの物理学が完成されたんだし、ダ-ウィンの進化論が完成されたんであって、それがいかに人類に対して偉大な影響を与えておるかという事が言えるわけです。

質問
いや、そこのところはいいですよ。学者先生は普通の金儲けがあまり好きじゃないとか、得手じゃないという人がなるという事ですね。そうしますと、事業家であっても、オ-ナ-社長でもって自由にできる人はいいですけれど、上に社長、重役、部長、課長が大勢いてなかなか自由にできない。やっぱり会社の方針なり、上司の指定なりで働く一般のサラリ-マンの人はなかなか仏道に没入することが困難な立場に置かれているという事になりますか。

先生
というよりも、経済界で働いている人というのは社会の下働きなんですよ。
人が着物を着たり、ご飯を食べたり、家に住んだりするための準備をしているわけです。だからそういう点では社会的な犠牲者だとみていい。本当に恵まれた人は真実を求めて生きるんです。ただ真実を求めている人ばかりでは社会生活が成り立たないから、たまたま社会の下働きをしてものを生産する人々がいるというだけのこと。

そういう人の存在は非常にありがたい存在だけども、そういう働きを基礎にして仏道修行があり得るんだけれども、企業に働くという事は、社会の人々に物質的なものを供給するという面では社会の下働き的な意味があります。そういう事が基本的にあると思います。

質問
そういう考え方を急に先生に言われたって、どうも私は得心がいかないような気がします。まあ、先生に言わせれば「そういう人は仏道に縁がないんだ」とか、それでおしまい・・・。

先生
いや、そんなことはないです。その点では経済生活をやっていても仏道修行はできる
んです。経済生活の日常生活の中に仏道修行そのものはあるんです。だから目標そのものは下働きであっても、下働きの過程の中には立派な仏道があるんですよ。だから下働きを基礎にして仏道修行をするという立場が成り立つと言えると思います。

質問
それでは私どもが、どうしたら立派な仏道修行者になれるか。ただ坐禅をすればいいという事ではなく、何とかうまく教えていただきたいと思います。

先生
いや、坐禅をする以外にないです。

質問
ああ、そうですか、やっぱり。困ったですね。何か他にうまい方法があるかと思って。(笑)

先生
というよりも、坐禅をする仏道修行のやり方が一番やさしいんです。仏道修行の種類の中で一番やさしいのが坐禅です。そういう事が言えると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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