FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 空華 13

釈尊の言葉について道元禅師の注釈のは続きます。

空華(空間において存在するところの実際はあるかどうか断定することのできない現象)が見えない時には一体どうなるというのであろう。空華というものは実在するかどうかわからないものであるから早くそれを捨て去って真実の世界に生きなければならないという考え方だけをするようであるならば、空華というものが身について理解が出来た後に、この世の中がどうなっているかという大切なところがわかってこない。

本当の実在として見えて来るという大切な事実を経験する事なく、実在するかどうか解からない現象というものが、種としての状態もあり、それが熟するという状態もあり、それが実って実が脱け落ちる状態もあるという過程を経験する事がない。「空華」というものを、現象が実在するかどうかわからないと言う事でそのまま済ましてしまう事があってはならない。そう言う考え方を基にして我々の住んでいるこの世界がどういう実体を具えているかと言う事を理解する事が大切である。

現に仏道の真実を理解していない人々は、多くの場合、陰・陽の陽、つまり眼に見える要素が存在しているところが空間であろうと考え、太陽、月、星の輝いている世界が空間であると考えた。たとえて言うならば、空間に浮かんでいる現象というものはこの我々の住んでいる何もない世界の中に浮雲の様に存在し、花びらが風に吹かれて東西に飛び交い、また上下に飛び交い、色彩をもち視覚で把え得るところのものが出現する事を「空華」と呼ぶのであろうと考えている。

しかし仏道における「空華」とは何かと言うならば、我々の住んでいる世界(地・水・日・風)という物質の要素によって作られたものと作ったものとの両方をあわせて、さらにそれらを包み込んでいる世界の様々な実在というもの、並びにその中に含まれている本質、本性と言うものが実は「空華」と言う言葉で呼ばれているものの実体であると言う事を少しも承知していない。

※西嶋先生解説
道元禅師の理解されている「空華」というのは、架空のものという意味ではなくて、我々の眼の前にあるところの実体というものを「空華」と釈尊は呼ばれた。つまり実在ではあるけれども、考えようによっては実在しないかもしれないという立場から「空華」と呼ばれた。この事は、ドイツのカントという哲学者が、実在するかどうかはっきりしないけれども、とりあえず現象として、あるいは実在しないものとして理解する事ができるというふうに捉えた捉え方と共通のものを持っているわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

質問
私はここ「ドーゲンサンガ」に来るためには、あっちこっちもいろんなことを差し操ったりなんかして、仕事だと思って義務、責任ぐらいの考えで一所懸命来ているんですね。だからあまり楽しくないんです(笑)。これは正直な告白ですよ。楽しくないけれども、他の仕事も遣り繰って「何かあるかもしれない」というんで来ている。

先生
それでね、仏道修行というのは楽しくなくても無理に頑張ってやるという面がどうしてもあります。私も坐禅がほんとに好きになったというのはそう古いことじゃないですよ。50、60才になってからですよ、坐禅がほんとに好きになって「楽しい」という感じを持つようになったのは。それまでは、やろうと思っても「今朝やったからまあいいや。晩になったらまたやろう」という気持ちの方が…日曜日など坐禅をやる時間があった場合でも「まあ、ちょっと遠慮しておきましょう」と言う様な事はずいぶん長いこと続きましたよ。

だからそういう点では、仏道修行に限らず人生そのものが嫌なことでも頑張ってやらなきゃならんという面がありますよ、それが人生だ。だから人生はバラ色で苦しいことも何もない、もう楽しくて楽しくて仕方がないというふうな事はまあ本当の人生でないのかもしれません。

質問
私は仏教を習ってて本当に良かったなとこの頃感じて、行き詰まらないという感じよりかほんとに救われるなあという、そこら辺の息抜きというもの安らぎというものを、先生のお話の中でいつも感じさせていただいています。


先生
うん、そうですね。それでその点での生活上の差し迫った苦しみについては、日本人は割合恵まれているんですよ。この間イギリスから二人の若い女性が日本に来て、その人が坐禅の会があるかって電話をかけてきたんですね。私はうっかりして日取りを間違えて別の日を教えてしまったものだから、その時間に行ってその二人に会ったわけですよ。その時にその二人が言っていましたのは、「日本に来るだけで非常にありがたい、それは向こうの本国ではとにかく気持ちが落ち着かなくて、不安で不安でしょうがない、とにかく日本で生活しているだけでそういう不安から解放されるという点では実にありがたい」と、こういうふうに言っていました。

だからその点では、我々がいかにありがたい国に住んでいるかという事は、事実としてはっきり言えると思います。それと同時に世界の文明というか、世界の思想というものがいかに苦しい場面に直面しているかという事、これも同時に考えざるを得ないという問題があると思います。ですから向こうの人の仏教の勉強の仕方というのは、思想問題よりも坐禅をしたいという事の方が大きいです。向こうから旅行に来ている人で、教えを受けるという事は「坐禅がしたいけれども、どっかそういう場所がないか」という質問の方がはるかに多いです。

この点は日本における仏道の求め方、坐禅の求め方と逆だと思います。日本の場合には、「仏道が勉強したい。その付けたりに坐禅もやりましょう」という考え方ですけど、向こうの人は「坐禅をやらないと居ても立ってもいられないから、どっか坐禅をやらしてくれる場所がないか」と、こういう捉え方で坐禅を見ています。ですから向こうの人にとっては仏教思想というよりも、まず坐禅がやれるかやれないか、坐禅をやっていることが途轍もない救いになるという現実がはっきりあると思います。非常に面白いことだと思います。


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


                                                 
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-