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正法眼蔵 空華 10

同安常察禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊の教えに「瞖眼所見空華」と言う言葉がある。その言葉を伝え聞いた愚かな人々が考えるには、瞖眼(はっきりとものが見えない眼)とは、一般の人々が正しくものを見る事の出来ないところの眼であり、一般の人々の眼はすでに病気にかかっていて、事実をはっきりと見る事が出来ないから、本来は何も存在しない空間の中に、実際には存在しない現象(空華)を見たり聞いたりするのだと言う理解をしている。

この様に釈尊の「瞖眼所見空華」という言葉を、眼が病気にかかっているために、ありもしないものをある様に見ると理解しているところから、三界や六道と言う人間が経過していく六種類の境涯や、有仏性(仏としての性質がある)とか無仏性(仏としての性質がない)とかと言う本来は実在しない仏教上の論議と言うものを、あたかも存在するかの様に間違って理解していると考えている。

この迷いや誤りに災いされている眼の状態がなくなるならば、ここで挙げた三界や六道や有仏性や無仏性と言う仏教上の様々な論議というものは見えるはずがない。この様なところから、この空間には本来何もない、現象は何もない、仏教哲学的な論議と言うものも実在しないと思い込んでいる。

※西嶋先生解説
三界というのは、欲界(欲の世界・頭の中で考えられた理想の世界) 色界(感覚で捉えられた世界・眼で見える世界・物質の世界) 無色界(行為の世界・日常生活で動き回る世界)
六道というのは1・地獄(自分の思い通りにならないと苦しむ) 2・餓鬼(あれも欲しいこれも欲しいといつも欲望に悩まされている) 3・畜生(欲望を達成しようと恥も外聞もなく動物と同じ様な事をやる) 4・阿修羅(気持ちが荒れて暴れまわる) 5・人間(暴れまわるとエネルギ-が発散されて少しは人並みになる) 6・天上(自分が人間として多少落ち着いた境涯にたつとまた自惚れる)。そして、どうも思い通りにならないと言う事で、また地獄に逆戻りすると言う人間が日常生活の中で次々と経過していく六種類の境涯を言う。

本文に戻ります  
哀れな事ではないか。この様な理解をしている愚かな人々は、釈尊が説かれた空間における現象というものが実際に存在する時点、その全体(始終)の様子というものについて認識していないと言う事であり、この事はたいへん哀れな話である。



              ―西嶋先生の話―

仏道というものは、理屈で頭の中で考えて「これが仏道だ、あれが仏道だ」と言っていても、いつまでたっても仏道というものはわからない。おかしな知識ばかりが増えてしまって、自分の役にもたたないし、人に教えても人の迷惑になるだけです。釈尊自身が教えられ、達磨大師が中国に伝えられて、道元禅師が日本に伝えられた、坐禅というものを実際にやると言う事です。

坐禅を実際にやると、自分自身が出てくる。その出てきた自分自身に従って、素直に行動するという事が仏道です。それ以外に仏道というものはない。坐禅をやりさえすれば、仏道というものはけっして難しいものではない。自然に入り込んでしまって仏道の世界から出られなくなる。坐禅を止めない限り仏道から出られない。そうすると何の努力も必要がない。自然にやらなければならない方向に、自分の生活が変わっていく。

頭の中で考えて「こうしなければならない、ああしなかればならない」と考えていても仏道には入れない。理屈を忘れて坐禅に打ち込んでいれば、仏道から出ようと思っても出られなくなる。それが釈尊の教えであり、達磨大師の教えであり、道元禅師の教えと言う事になるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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