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正法眼蔵 空華 8

同安常察禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

「花が開く」というのは何かというならば、あっちにもチラホラ、こっちにもチラホラという様な個別の具体的な事象の事である。そしてこのような個々の具体的な数量を表現するためには、この世の中の様々の事物というものを統一的に考えて、その様な様々の事物を統一的に考えたものを「世界」と捉えているのである。この様な基本的な理論をしっかりと頭において、春とか秋という季節の実態を考えてみる必要がある。

春には必然的に花が咲き、秋に必ず実を結ぶと決めつけて考えることは誤りである。およそ具体的な時間である限り、どのような時間においても必ず花がありその果実があると言えるのである。花が咲く場合にも実が実る場合にも、それぞれの具体的な時間において花が咲いたり、実が実ったりするのである。

この様な理由から、個々の事物にはそれぞれが外見もあればその内容も具わっている。様々の木にもそれぞれその外見がありその内容がある。金銀銅鉄や珊瑚や水晶などで作った樹などにも外見がありその内容がある。地水火風空という物質に関する五つの要素で出来ているところの個々の事物に関しても、その外見がありその内容がある。人間にも外見があり外見の中にもそれを表わす様々の姿がある。枯木にもそれなりの外見は具わっている。

この様にあらゆる物事にはその外見があり、その内容というものがあるのであるけれども、その様な世界の中で釈尊はさらに空華(空間に咲く花。現象を意味する)があると言われた。ところが見識や経験の少ない人々は、この釈尊の説かれた「空華」という言葉によって象徴される現象というものの色彩、輝き、枝葉、花などがどのようなものであるかという事を知らず、わずかに空華という言葉だけを聞いているに過ぎない。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

たまたま毎日やっておって一日だけ欠けると、そこではっきり普段の気持ちと違うという事が出てくるわけであります。ですからそういう点では、坐禅をやらなった時の違いというのは非常にはっきりあるわけでありますが、その差が非常に小さいために我々は普通気が付かないで見過ごしてしまうという事があるわけであります。

ですからその土曜日の時の説明でも、「坐禅というのは高速道路に乗るようなものだ」という話をしたわけであります。高速道路に乗っている時には、たいへん順調だから自分が今高速道路を走っているという事に気が付かないわけであります。それと同時に、高速道路に乗らないで、苦心を重ねて日常生活をやっておると、「人間の生活はこんなものだ」というふうにあきらめてしまうわけであります。だからそういう点では、普段の自分の生活、坐禅をやらなくてもそうおかしい生活はやっていないと感じるわけでありますが、坐禅をやって高速道路に乗った時の状態と比較してみると、どこが違うかという事がわかるわけであります。

今日坐禅はそう盛んでありませんから、坐禅をやる人というのは特別な人で、やらなくて当たり前だという考え方が一般的でありますが、私は坐禅をやることによって人間が初めて人間らしい生活ができると思う。だから坐禅をやらないで人間らしい生活というものはできないと。そういう点では坐禅をやることが極当たり前のことではあるけれども、人間の生活のためには非常に大切な事、こういうことが言えるかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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