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正法眼蔵 空華 7

同安常察禅師が「優鉢羅華(青い蓮華の花)は涼しい感じを与える。そのような涼しい感じを与える花というものは環境の暑いところで咲く」と言われた。

同安常察禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
優鉢羅華と呼ばれる涼しい感じを与える青い花というものは、真夏の暑い環境で初めてその花としての特徴を示し、そこに咲くという事があるのである。真夏の暑くてたまらない状況というものはどういうことかというと、その中に優鉢羅華という涼しい感じを与える花が咲いているという事が、その周囲が暑い環境だという事実を示している。つまり、物事が置かれている環境は、その中に置かれている事物との対比で特徴づけられるという事がある。

この様にこの世の中に存在するものとその周囲とが相対関係にある。しかし物事が周囲から目立つことによって存在がはっきりするという状況というものは普通は考えない。このように燃えている環境が優鉢羅華という涼しい感じを与える花の存在にはぜひ必要であるという事を勉強しなくてはならない。

もしこのような考え方を仮に疑ってみるとするならば、水の中になぜ蓮の花が咲くのかという事さえも疑わざる得ないという事がある。なぜ木の枝に花が咲くのかという事は疑ってみるならば十分に疑うだけの理由があるという事になる。さらに疑問を持つという立場から問題を考えていくならば、我々が現に生きている世界がなぜこのように安定して存在しているかという事も疑わざるを得ない。しかしながら、我々は常識的に問題を考えるから、このようなことは当たり前のこととして疑う事をしない。

しかしながら、仏道を勉強して仏道の真実に到達した人でないならば、花が咲くという事、つまり様々の現象がこの世界に現れることと同じだという事が中々わからない。

※西嶋先生解説
我々は常識的には「世界」という言葉があるから世界というものが独立してあるものだというふうに考えるわけでありますが、世界というものが独立してあるわけではなくて、机があり、障子があり、柱があるという事で、そういう物の俗称としてあるに過ぎないわけであります。この世の中にある様々のものを全部取り外してしまって世界というものがあるわけではない。したがって現象というものがあることによって世界があるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

土曜日にやっておる会で、ある女性の方から質問がありまして、その時の話をちょっと致しますと、その人は家庭の主婦でありますが、朝30分、夜30分ずっと坐禅をやっておるという方であります。ただ、先日来客があって、その来客が一晩泊まった。そして翌朝駅まで車で送って行かなければならなかったので、朝の坐禅ができなかった。その日どうも気分が落ち着かなくて何となく気持ちが不安定だった。

その人のご主人も一緒にやっているわけでありまして、ご主人もやっぱり気持ちが落ち着かない。そこで二人で話して「何でこんなに今日は気持ちが落ち着かないんだろう」と、色々考えて見たところが、「ひょっとしたら坐禅をやらなかったからかな」という事に気が付いた。お二人とも坐禅というのはそれほど効果があるものだとは思っていなかったから、「まさかそんなことはあるまい」というふうなことで、坐禅をやらなかったことが気持ちが落ち着かない原因かどうか確信が持てなかったので、質問してきたわけであります。

その時私は「それは間違いなく坐禅をやらなかった結果だ」という話をしたわけであります。坐禅をやった時の状態とやらなかった時の状態というのは、あまり大きな違いがない。ほとんど違いがないと言ってもいいくらいに違いが少ない。だから仏の状態と凡夫の状態とは紙一重だという事が言えるわけであります。常識的に考えると仏さまというのは神様ほど偉くて、普通の人間はそれに比べると非常に落ちるものだ。

だから仏というものと凡夫というものとの差は非常に大きいものだというふうに考えておるわけでありますが、実は仏の状態と凡夫の状態とは紙一重である。従って坐禅をやったりやらなかったりという事だと、坐禅が何の効果があるのかというふうな感じになってくるわけであります。つまり坐禅をやった時と、やらなかった時の違いはハッキリしない。こういう問題があるわけであります。
                             つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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