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正法眼蔵 空華 5

達磨大師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

ここで「自然成」と言われているけれども、「自然成」というと自分と関係なしに、客観的に自然に出来上がるという意味にとられるけれども、それと同時に「自然成」の「自」という言葉の意味には「己」という意味もある。ところが自分自身だけが孤立して存在するわけではなくて、自分自身というものは常に周囲の環境と相対して存在するものであるから、客観的世界と同じ事であり、別な言葉で言えば「四大五蘊」である。

※西嶋先生解説
四大というのは古代インドにおいて説かれた物質の要素(地・水・火・風) 五蘊というのも、この世の中を客観的に捉えたという場合に、五種類の集合体(色・受・行・想・識)にこの世の中がに分かれているという事で「四大五蘊」というのは、我々の住んでいる世界を客観的な立場で捉えた場合によく使われる言葉であります。ですから自分自身というのは自分の心という事で主観という事でありますが、仏教においてはその主観が常に客観と相対してのみ存在するという考え方があるわけであります。

ですから近代哲学では頭で問題を考えていくという態度に徹したところから、主観の実在は信じる事ができるかもしれないけれども、それの相対する客観世界、現象というものが存在するかどうかはわからないという理論を組み立てたわけでありますが、仏教ではそのような主観というものは必然的に客観に相対したものであり、その客観に相対したものはもっと詰めて言うならば「四大」であり「五蘊」であると言われているわけであります。

本文に戻ります。
無位の真人(相対的な価値を超越した真の人間=仏)を自由自在に使いこなすと言う場面において問題を考えるならば、自分と言ってみても本当に自分だと断定できないし捕捉する事の出来ない誰かだとも断定できない。その何とも名前の付けようがない、とにかく朝起きると動き出すものを自分と呼んでいるに過ぎないのである。「自然成」の「然」というのは、ありのままに任せると言う意味である。

ありのままに現象が我々の目の前に現れていると言う事が、花が咲いたり、実を結んだりと言う時点の事を言うのであり、達磨大師が釈尊の教えを伝えて迷っている人々を救おうとされた時点を意味するのである。その点では自然の現象が現れたり、達磨大師のような人格が一所懸命努力したりという場面を全部ひっくるめた形で、その状態を「自然成」と呼んでいるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「自然成」というのは、自然になるようになると説明されましたよね。

先生
はい。

質問
そうすると、歌に「ケセラ・セラ(なるようになるさ)というのがありますが、なるようになるのだから先の事なんか考えるの事はないって。そうなると問題がニヒルになっちゃいますね。そういうことじゃなくて、後に先生が続けたように、瞬間瞬間を一所懸命生きるという事があって「自然成」という・・・。

先生
そうですね。ですから道元禅師は「自然成」という言葉を言われたけれども、その言葉の内容はこれこれこれこれだというふうなことで、日常生活を一所懸命にやっているとその結果が出てくるというふうなことも含めて「自然成」と言われたというふうに道元禅師が解説しているわけですよね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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