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正法眼蔵 空華 4

「空華」の巻、本文に入ります。

中国に初めて坐禅を伝えられた達磨大師が「一華開五葉、結果自然成」と言われた。(一つの花とは何かというならば、五枚の花びらが開いた事であり、五枚の花びらが開くならば、花が咲き、また実を結ぶという事態も自然に生まれてくる)

達磨大師の言葉について道元禅師が注釈されます。
花が開いている事と光が花に反射して我々の眼にはいってくるという事とは同じことであるし、花の色が見え、花の形が見えるという事が花が開いているという事の実体でもある。そのような事情を勉強してみる必要がある。一つの花というものを我々は頭に描くけれども、もっと細かく見てみるならば五枚の花びらが重なっているという事が実体であるし、また逆に五枚の花びらが開いているという事を一つの花が咲いているともいうのである。

このように一つの花は五枚の花びらにすぎないし、五枚の花びらは実は一つの花をあらわしている。つまり現象と実体とが一つのものであるという基本的な捉え方が様々の場面に広がっていった場合に、達磨大師が言われたように、自分は中国に来て釈尊の説かれた教えを伝え、迷いに沈んだ人々を救うという事をやったというふうな宗教的な実行というものも、一つの花が五枚の花びらにすぎず、五枚の花びらが一つの花にすぎないという淡々とした事実であるという事に他ならない。光や色彩というものを尋ねる場合にはこのような学び方をすべきである。

我々の行いに関連してみても、どんな結果になるかについては特に心配する必要はない。結果と言うものは「自然成」――自然に出来上がっていくものである。「自然成」というと、何の努力もしないで自然に出来上がっていると感じられるけれども、実は原因を一所懸命につくり、その結果を得ると言う事実に他ならない。その様に原因をつくり結果を得ると言う努力と言うものは、我々が住んでいる世界、この現実の世界、宇宙というものににおける原因があり、宇宙における結果である。この様な広い宇宙の中においてその原因を一所懸命つくり、その結果をもたらすと言う事が我々の人生であり、達磨大師が言われた言葉の意味である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「一華開五葉」を先生は「一つの花とは五枚の花びらが開く事」と訳しましたが、普通は臨済・曹洞・雲門とか五つの宗の事を言いますよね。それとちょっと意味が違いますね。

先生
私がこの「正法眼蔵」を読んだ限りでは、今日説明した様な解釈しか成り立たないとこういう見方です。道元禅師の解説でも「一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり」と書いてあります。一つの花が五枚の花びらなんだし、五枚の花びらが一つの花なんだ、つまり現象と実体とが一つのものだと、こういう事を「一華五葉」と解釈する訳です。
   
ですから中国の仏教が臨済・曹洞・雲門・法眼・潙仰と五つあるという事では、ここの文章がどうも解釈できない訳です、そんな事は書いてないんですから。それを頭の中で考えて「五つと言うのは五宗の事かな」と言うふうに想像して、途轍もない解釈を持ってきたところで「正法眼蔵」の意味が分かるはずがない訳です。
   
だから「正法眼蔵」は、文字に書かれている通りに丁寧に読まなければならない。勝手に頭の中で考えて、「あれかな」と言う様な事で色んな解釈をしてみたところで、何を言っているんだかよくわからないと言う事では説明にならん訳ですよね。   

質問
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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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