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正法眼蔵 空華 3

「空華」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

哲学的にこういう問題に関連してカントが主張した問題というのは、我々の哲学問題と言うのは自分たちの心の働きを基準にして理解する事が出来る。ただ客観的なものがあるかどうかという事はわからないと言う事を主張した訳であります。そのことはどういうことかというと、主観というものを我々の眼だと考えますと、この眼で客観と言うものを見た場合に、眼に見える事が唯一の事実である。

見られている方が実際に存在するかどうかは断定出来ないと主張したわけであります。なぜこういう論議が西洋文明の中で大切かと言いますと、西洋文明の基礎は人間がものを考える働きを中心にして、文明が組み立てられている訳であります。ですから哲学の面でもそう言う考え方を徹底させていきますと、人間の目に見える、あるいは人間がものを考える事が出来ると言う事実はハッキリあるとしても、それは単に人間の心の働きであって、眼に見えるもの、あるいは考えられるものが本当であるかどうかは証明できないと、こういう事をカントも主張している訳であります。

こう言う態度で人間のものを考える働きを中心にして人生問題を考えていったと言う事は、哲学の面でも非常に重要な意味を持っている訳でありますが、それと同時に、客観的なものが実在するかどうかと言う点ではかなり後退してしまったと言う問題がある訳であります。ですからカントは客観的なものを「現象」と呼んだ訳であります。「現象」というのは現れている姿と言う意味であります。だから机にしても、畳にしても、壁にしても、柱にしても、我々に見えると言うだけで、本当にあるかどうか判定する事は人間の立場からするならば僭越だと、こういう主張をした訳であります。

そういうものの見方と、この「空華」の巻は非常に関係がある訳であります。カントは我々の目で見えるもの、手で触れるもの、それは人間が見た、触ったと言う事は確かに言えるけれども、本当に物があると言う事の証明にはならないと言う考え方をして、人間以外の外界のものを「現象」と言う言葉で捉えた訳でありますが、「空華」というのは同じ様に、確かに我々は眼に見える、あるいは考えられるものはあるけれども、本当にあるかどうかはわからないという主張が言葉の中に含まれている訳です。

仏教思想と言うのは哲学的にかなり進んだ思想でありますから、古代インドの時代からこういうものに対する理解がすでにあったという事が言える訳であります。道元禅師もそういう問題を取り上げて、どの様に理解していったらいいかと言う事をこの「空華」の巻で説いておられると、こう言う事になる訳であります。



              ―西嶋先生の話―
    つづき--   

その本の中でどういう事を言っているかというと、近代の物理学と古代インド、あるいはヒンズ-教で考えられておるような世界とが非常によく似ておる。そのことはどういう事かというと、この世界とは相対的なものでしかも流動的なものだと。ニュ-トンの考えた物理学では固定的な物というものがあったわけですが、今日では物質そのものが流動的になってきて精神的な世界と近づいてきたという風なことが書いてあったわけです。

そういう本を読んでみますと、世界の思想が我々が予想しておる以上に東洋の思想に近づきつつあると言えようかと思うわけです。今日世界を支配している民族がどこの民族かという事になりますと、私の感じではアングロサクソンという民族がかなり中心になっておるんではないか。そのアングロサクソンという民族の特徴があるわけですが、一つは非常に理屈っぽい事、理屈の通らんことは絶対に認めないという性格がある様です。それからもう一つは行動の面で妥協しないという面がある。

そういう二つの性格がありますと、仏教思想を勉強する上に置いては非常に早く目標に到達するんではないかと、こういう気がするわけです。仏教の勉強を考えてみましても非常に理屈っぽいという事が一つあるわけです。理論的に通らないことは認めないという立場が仏教の勉強の中にはある訳です。それと同時に行いの面で妥協しないという事、それが仏教の目標に到達する一つの特徴だと言えようかと思う。

その点では、アングロサクソン民族というのはそういう二つの特徴を持っておる。彼らが仏教思想にかなり関心を持っている裏側には、近代物理学を生みだしたような非常に理屈っぽい妥協しないという性格があって、そのような傾向が仏教を勉強する上においてもかなり有利に作用するのではないか、まあそういう風なことを先週ちょっと本を読んでいて感じたわけです。その点では、世界における仏教の今後は、我々が考えている以上に早く一般にいきわたっていく可能性があるんではないかと、そういう気がするわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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