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正法眼蔵 都機 12

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

我々が日常生活においてどんな動き方をしているかと言う事を勉強してみると、人の日常生活の動きというものは、いま動いているとか、いま止まっているというふうにはっきり分かるものではない。頭の中では、いま自分が動き始めたとか、いま自分が動くのを止めたと考える事が出来るけれども、その様な形で頭の中で理解の出来る人間の行いというものは、現実に人間が動いている状態そのものではない。

人間の行いと言うはもっと微妙な頭の中では捉えにくい動きである。だから人間の行動を眺めて、いま動いているとか、いま止まっているとかと言うふうに論じて、人の動きと言うものを比較してみると言う事をやってはならない。雲の動きも、月の動きも、船の動きも、岸の動きも、すべてその様な相対的な関係であって、一面的に決め付ける事の出来ないものを持っている。愚かな立場から、非常に狭い量見で、問題を範囲の狭い形で考えてはならない。

雲の動き一つをとってみても、東西南北あらゆる方向に動く性質を持っているし、月の動というものも、昼とか夜とか、昔とか今とかと言う時間の変化を乗り越えて、絶えず動いていると言う事が実態である事を忘れてはならない。船の動きも岸の動きも、過去・現在・未来と言う時間的な違いとは無関係に過去・現在・未来と言う時間を使いこなしているという実情もあるのである。この様な現実の世界に我々は生きているのであるから、直接に何の中間的な手立てもなしに現在の瞬間に生きて、一切のものに満足して不満なものは何もないと言う状態が我々の現実の姿である。

※西嶋先生解説
ここでは一番最後のところで、仏教徒の在り方とは何かといえば、不満を持たずに満足していると、こういうことになるわけであります。ところが中々そういうことにならないのが実情だという事で「いや、このような不満の満ち溢れた世の中で、満足して足りないところが何もないなどと、そんな暢気なことを言われちゃ困る、」とこういうご意見もあるかもしれないけれども、満足して欠けているものが何もないという状態が我々人間の普通の状態という事。

それはどういうことかというと、坐禅をしている時のことを考えて見ればいいわけであります。坐禅をしておる時の状態というものは、不満があったらすぐやめちゃう。不満があったら「今日はやりません」「今日は忙しいからちょっと行きません」と、こういうことになるわけです。「よし、行ってやろう」という事でここに来て45分間坐っておるという事は比較的自分の生活に満足しておるから。


だからそういう点では、坐禅をする事ができるという事はかなり恵まれた状態だというふうに言わざるを得ない。坐禅というものは非常に健康にもいいし、気持ちの落ち着きのためにもいいものではあるけれども、世の中の人がなぜ坐禅をやらないかというと、やれるだけの気持ちに行かないから。だから坐禅がやれるようになったという事は、かなり自分自身に満足していい状態だと、こういうことになるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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