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正法眼蔵 都機 11

釈尊が金剛蔵菩薩に告げて言われるには、「たとえて言うならば、眼が動いているときは、じーっとしている水の動くようなものであり、眼がじっとしていても、なお火がちょろちょろと動く様なものであり、雲が動くならば月も動き、船が動けば岸も移るのもまた同じような事情である」と。

※西嶋先師解説
これは「大方広円覚修多羅了義経」という経典の中に出てくる言葉でありますが、仏教経典ではこういう主観と客観との相互関係というものを常に説かれてるという事が言えるわけであります。ですから道元禅師が特に難しい事が好きでこういう主観と客観の説明をされたという事ではなくて、仏教理論においては釈尊の時代から主観と客観の相互関係が論じられておるという事、これはハッキリと頭においておかなければならんわけであります。ですから、大変難しい問題ではありますけれども、こういう問題をしっかりと詰めておかないと仏道そのものが理解できないと、こういう事情もあるわけであります。

本文に戻ります。
釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。今ここで釈尊が述べられている「雲が動くならば月も動き、船が進めば岸も移動する」という教えをはっきりと理解して勉強する必要がある。慌てて急いで学ぶべきではないし世間の常識的な見方で考えてはならない。ところがこの釈尊の教えを、釈尊の説かれたと同じ様に見たり聞いたりする人は極めて少ない。

釈尊の説かれたと同じ様に学ぶと言う事がどういうことかと考えてみると、釈尊の説かれた教えは常に体と心を別々に分けてどっちが本体でどっちが第二次的なものというわけ方をする教えではない。菩提(真実を得た)とか涅槃(非常に落ち着いた境地に到達した)と言うけれども、その様な事が釈尊の教えの究極ではない。釈尊の体、釈尊の心というものは、もっと現実的な、生き生きとした、我々の日常生活と変わらないものである。

釈尊が言われた「雲が動けば月が動く、船が動くならば岸が動く」と言う言葉の意味は、雲が動いていると言う事が月が動いていると言う事であり、船が動いていると言う事が岸が動いていると言う事である。雲と月との関係は、同じ時期に同じ様に動くのであり、同じ歩調で同じ様に動くと言う事であって、どちらが始めでどちらが終わりとか、どちらが前でどちらが後ろとかと言う時間のずれはない。船と岸との関係にしても、同じ時期に同じ様に動くのであり、同じ様な歩調で同じ様に動くのであって、どちらが始めでどちらが終わりとか、あるいは両方が別々に動いていると言う関係ではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
宗教家、教授、そういう類の人はやっぱり片寄った世界に生きていると思います。だけど先生は我々と同じレベルで一つの企業の中に入って、そういうところの大変さ人間関係とかいろいろな面で・・・。宗教家や教授のように、専門的に仏教の言葉だけを教えると言うのはやっぱり私が見ている感じでは、薄っぺらいと言う感じがしてしまいます、経験的に。

先生
私の場合、自分を振り返ってみて、非常にわがまま生き方をしたという事は言えると思いますね。その事はどう言う事かと言うと「名利の心を離れろ」と言う事に関係しています。「名利の心を離れろ」とは「わがままな生き方をしろ」と言う事です。人間にはわがままな生き方をする義務がある、とそれが「正法眼蔵」の教えですよ。ところが世間のしがらみに縛られると、それについて行かないと損をするとか、それについて行かないと仲間外れにされてしまうとかと言う事で、わがままな生き方をみんなやらないんですよ。

仏道と言うのは「わがままな生き方をしながら、しかも道から外れない」と言う事です。だからそういう点では「名利の心を離れる」と言う事は、決して山の中に入って食べたいものを食べないで我慢する事ではない。たとえば、社会で一つの職業に就きますとグル-プがあるわけですよ。つまり学会なら学会でグル-プがある。そう言うグル-プの中に所属していないと、学者としては中々浮かばれないと言う面があるわけです。

浮かばれたい為には、嫌な事も我慢をすると言う事もあるわけですけどね。そう言う生き方と仏道の生き方は別だと言う事です。それは社会から飛び出して生きるという事ではなくて、社会の中に生きておりながら、しかも自分の良心に従って生きるという事。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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