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正法眼蔵 都機 10

投子大同禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

今までは抽象的な考え方と具体的な月との相互関係を考えて来たけれども、抽象的な月、あるいは具体的な月という差別を乗り越えて、現に眼の前にある月を考えた場合には、やはり3つの場合、4つの場合と言う様々な具体的な月が個々ににあると言う事が現実の問題として言える。

現に具体的な月があるという事がなぜ起こり得るかと言うならば、個々の具体的な3つ、4つの月の例を一まとめにして考える事が出来る「月」という言葉があればこそ、現実の月そのものもあり得るのであるから、月が現にあると言う事は、個々の具体的な月をまとめて考える事が出来ると言う事実の中に初めてあり得ると言う事も言える。現に目の前にある月がなぜ実在としてあるかを考えてみるならば、その個々の月の例を一まとめにする「月」と言う言葉があればこそ現実の月もあり得るのである。

月が独自の存在としてそこにあると言う事から、個々の具体的な月の例7つ、8つと言うふうに連想されると言う事も同時にある。その場合には、具体的な月から様々な他の月の例が想像として生まれて来るのであるから、様々な具体的な月を想像させると言うところに、現に月が実在するという事実が存在していると言う事が言える。現に月が大空に輝いているとは、他の月の例が7つ、8つと数多く想像できると言うところに具体的な月がいま現に大空に輝いていると言えるのである。

月が現実にあるあり方を考えてみるならば、個々の具体的なすべての月を呑み込んで、現に月は大空に輝いているのであるし、またすべての具体的な月を想像させるような形で具体的な月が現に大空に輝いていると言う事も言える。我々の立っている大地も、天空の全ても、様々な具体的なものを常に吐き出している、連想させていると言う事も言えるし、我々を覆っている天の一切が、我々の立っている地の一切が、様々の個々の事物を全部取り込んで現実の世界としてあると言う事も言える。

自分自身もその世界の中に入っているし、自分以外の客観世界もその世界の中に入っているし、自分自身もその世界から吐き出されているのであるし、自分自身を取り巻く一切の外界の世界も、その様な現実の世界の中から吐き出されていると言う事も出来る。

※西嶋先生解説
ここでは、抽象的な言葉と具体的な個々の事実というものとの相互関係を述べながら、一番最後のところでは、抽象的な事実関係とを全部ひっくるめたものが我々の住んでいる世界であり、そういう現実の世界の中で個々の事物が現れたり、その現実の世界の中にすべての事物が包含された形で現に目の前に展開されておる。こういう事を言われているわけであります。

ですから、ここの記述もかなり哲学的な問題であって、わりあい理解しにくい説明にはなっておりますが、こういう問題を詰めていかないと仏教の基本的な考え方というものが中々安定しないという問題があるわけであります。

こういう問題をハッキリさせておかないと、どっちつかずの論議が仏教だという考え方になって、仏教という思想そのものが結局わかりにくい思想だという事になりがちでありますが、ここのところの説明は言葉としては非常に難しいわけですが、それと同時に、抽象的な言葉と、それに含まれているところの個々の具体的な事物との相互関係というものは、一応別々に考える事ができるとしても、それは結局一つのものであり、そのような 一つのものが我々が住んでいる宇宙を形成し、現実の世界を形成しておると、そういう基本的な仏教の考え方がこの部分でも述べられておるという事になるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
スポ-ツの場合、記録を破ると言う大きな使命みたいなものがあるんですが、先生はスポ-ツをやっていてそういう気持ちになりませんでしたか。

先生
だからそういう点では、坐禅と同じでやってみないとわらないんですよ、これは。人間というのは訳のわからんもので、とにかく何となく意味付けの出来ないところで一所懸命にやるという事がいくらでもありますよ。

質問
スポ-ツをやめられたのはどうしてですか。

先生
仏道の方がより本物だと言う考え方ですよね。そう言う色んな形があるけれども、余分なものをどんどん切り捨てていくと、どうしても坐禅になり仏教になってしまう。だから、仏教とか坐禅と言うものが人生の最終の形だという事はまず間違いないと思う。私は坐禅とか仏教以外のところに何か興味を持って、そっちへまた転出しようと言う気はさらさらない。そんな事が起こり得るはずがない。

と言うのは一番最後のところへ来てしまって、こんなに人生そのものを味あわせてくれるものはないと言う感じだから、もっと他に何かいい事がないかという気は起きない。まあ残念ながら起きない(笑)。そういう点では、仏教と言うのはやっぱり色んな経験をして、泣いたり喚いたりしてその結果「ああ、これしかないんだ」と言う感じで行きつくものだと思います。


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コメント
627: by 自遊自足 on 2018/07/26 at 04:36:00

月についての問答も解説もなかなか私の理解力のはるか上を行ってますね~ 何度読み返しても難しいです。

628:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2018/07/26 at 15:05:57

自遊自足さんコメントありがとうございます。

毎夜空に現れる月に対して、我々には心があるから「ああ月が出てるな」と月の存在に気が付きます。それと同時に月を見て「あれは月だな」という我々の心が作られます。心が月を認めるからこそ月があり、月があるからこそ心ができるという関係ですが、現実には我々の眼の前にありのままの月が在るわけです。また月にも満月や下弦・上弦の月や三日月や新月など色々な月が在るという見方もあれば、それらを一まとめにして「月」という見方もありますが、現実には毎晩その夜だけのありのままの「月」が東の空から上ってきます。このように毎夜空に現れる月を使って主観的に見たり客観的に見たり、または抽象的に見たり具体的に見たりして我々の住むこの世界をありのままに見ようとしています。

629: by 自遊自足 on 2018/07/29 at 08:48:58

月は一つだけど満月もあれば新月も。その過程で様々な月の形を私たちがみてどのように感じるか?って言う事ですかね。物の見方 感じ方は人それぞれ 多方面にわたるって言う事ですね

630:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2018/07/29 at 16:09:46

自遊自足さんコメントありがとうございます。

私たちは現実を見た時に抽象的解釈と具体的解釈で一つの現実を二つに分けて理解しようとします。「物の見方 感じ方は人それぞれ多方面にわたる」と思ったとしても、ただのそれは錯覚であり抽象的解釈かまたは具体的解釈のどちらかになります。例えば、抽象的な解釈とは新月から満月、満月から新月といろいろと形を変える様々な月をたった一つの言葉「月」と抽象的に理解します。また具体的な解釈とはいろいろと形を変える月を新月・三日月・満月などと分析して具体的に理解します。しかしこれはあくまでも考え方であり、現実の月は私たちの眼の前にぽっかりと空に浮かんでいます。都機の巻も難しいですが、毎日坐禅をするとわかりやすくなると思います。これからもよろしくお願いします。






プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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