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正法眼蔵 都機 8

古仏の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

我々の日常生活に与えられている瞬間瞬間が常に永遠の意味を持っている。過去においても色々な具体的な瞬間があったし、今後も具体的な瞬間瞬間があるであろう。その過去、あるいは未来における具体的な瞬間と言うものを考えてみると、それがいずれも大空に輝いている月と同じ様に具体的なものであって、瞬間の出来事であると同時に永遠の意味を持っている。

我々の個人個人の問題について考えて見るならば、現に体があり心があり、客観があり主観があるという形で我々は存在しているけれども、その様な自分自身が存在するこの世界には、太陽も現れて来るし、月も現れて来るけれども、その様な太陽も月も、身心を具えた自分自身も、月と言う主観的なものによって照らされたものとして捉える事が出来るであろう。

生き死にと言うもの、あるいはごくありふれた日常生活と言うものも、いずれも大空に輝く月と同じ様にきわめて瞬間的なものであるけれども、永遠の意味を持っているであろう。そのように考えてくると、我々の住んでいるこの宇宙全体というものも、月に照らされた世界の中ににおける上下の動きであり左右の動きであろう。

今日我々が送っているところの日常生活にしてみても、まさに月の美しい光りに照らされたところの疑問の余地のない明々白々とした個々の事物と言う捉え方も出来るし、その様な個々の具体的な事物であるけれども、それがまたやはり月に照らされたところの疑問の余地のない仏教界の諸先輩の心と同じものだと言う事が出来るであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は学徒の出陣で満州の方へいらしたんですか。

先生
いやあ、時期は大体同じだったけどね、私の場合には、徴兵猶予の時期が切れて兵隊にいったわけだから。まあ学生の時に行ったんですけどね。

質問
そうすると、そういう中でも亡くなった人がいっぱいあるし、生きてこられるという事もやっぱり宿善のあれかしら。――そんなことは言えませんね。

先生
ただね、戦争に行って帰ってくるとかなり運命論者になる事は事実だね。それと同時に「あの時死んでもしょうがないんだから、まあいま一所懸命やりましょう」という事はある。だから先に死んだか後に死んだかの違いはあるけれども、「やらなきゃならないことを一所懸命やりましょう」という事にはつながるのかもしれない。ところがそういうことがない場合には「まあなるべく自分が得するように」という事で考える傾向がわりあい続くのかもしれない。その点では、戦争と言う様なものがあると「まあ、しょうがないなあ」という感じですよね。

質問
私の弟はガダルカナルで生きて来たんですよ。

先生
ああ、それは珍しいですね。

質問
ええ、だから随分運が良いなあなんて…。運というよりも、私の母が――そうすると迷信になっちゃうから話しませんけど、一所懸命拝んでたんですよ。

先生
ただその場合、流れに従うという心がけは必要かもしれない。例えばね、一緒に部隊に入っても、幹部候補生を志願しないって頑張った人がいるんだよ。つまり早く帰りたいという事でね。どけど、そういう努力をした人は中隊長や下士官から「幹部候補生に志願しろ、志願しろ」って毎日言われるわけよね。それでも「いやです、いやです」という事で頑張っていて、逆に兵隊で実戦の方に行っちゃって亡くなった人というのはおるね。


そうすると、やっぱり目の前にぶら下がったものを認めてついていくという事は、人間としてはかなり大事な生き方だと思う。自分の頭で考えて「これは嫌だ」とか「絶対に逃げるんだ」とかいっても、なかなかそうはいかんと思うね。それと同時に「あれがほしいんだから何とかして・・・」って、ある程度は努力次第で得られるかもしれないけれども、そう執着を持つと、やっぱりあんまり結果がよくないんじゃないかと思われる場合もある。

そりゃ怠けてブラブラしていればいいという事では決してないけれども、与えられた環境の中で一所懸命やるというくらいが我々がやり得る最善の努力かもしれない。先々のことを色々考えて、読みに読んで努力してみても、中々そう棚からボタ餅が落ちるようにうまくいかないという事が我々の人生の実情ではなかろうか、というふうに感じますね。

質問
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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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