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正法眼蔵 都機 7

古仏(過去における仏教界の先輩)が言われた。「一個人の心とは何かと言う事を考えてみるに、それは心の内容をなしている一切の実在そのものに他ならない。また一切の実在とは何かと考えてみると、個々の人々の心そのものに他ならない。」
 
古仏の言葉について道元禅師が注釈されます。
我々の心と言うものが独立してあるわけではなくて、我々が外界の世界を見得るという事、それが心があるという事の唯一の証拠である。それでは外界の世界が心とは独立に存在するかという考え方になりがちだけれども、実はそうではなくて、外界の世界というのは我々が心を持っていればこそ、見えたり、聞こえたり、触れたりするのである。

心とは盤山宝積禅師の譬えをとるならば、月と同じものだと言えるのであるから、単に主観という捉え方ではなしに、むしろ大空に輝いている具体的な月そのものが、月というものの一つの姿を示しているのであろう。心と言うものに関連して、外界の世界との対比で心があると言うのではなくて、月が大空に輝いている姿そのものが月というもののあり方でもあるのであろう。

古仏の言われた言葉からするならば、我々を取り巻いている外界の世界が我々の心と異なるものではないのであるから、一切が心に映じた姿だと言う事になれば、盤山宝積禅師の譬えに従えば、一切が月であるという捉え方も出来るのであるから、一切の世界はすべて月であるという理解の仕方も出来る。月に照らされて一切の世界が見えるのと同じ様に、心に映じた事によって一切の世界が見えると言う事も言える。我々の体や我々の住んでいる世界の物質的な側面と言うものを考えてみても、すべてが月だ、主観的なもの、心の反映だという捉え方も出来る。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は坐禅をする気持ちになる人はだいぶ気持ちにゆとりがあって、幸せと思っているからっていうけど、本当は仏教に入ろうという人は何か不幸せな事や満ち足りないものがあるから入って来るんでしょ、疑問があるから。疑問がない人は入らないでいられるんです。

先生
その辺がどっちなのか、私はよくわからない。心配事があった場合に、坐禅をやってみようと言う気持ちになる事が中々難しいんではないかと思う。

質問
そうですね。私の友達なんかでも私が勧めても、ほんとにしてくれないんです。

先生
うん、そう。「そんなにうまい話があるもんか」と言う感じでね。

質問
ええ、そうなんです(笑)。

先生
「健康になる、気持ちが落ち着く、そんなうまい話があるもんか」と、「こっちは朝から晩まで心配してんのに」と、こういう感じが坐禅とか仏教とかという話を聞いた場合に一般の人が受ける感じじゃないかな。

質問
だから気の毒になってしまって、言えなくなっちゃってね。

先生
そう。だからそういう点では、やっぱり坐禅をやる様になったと言う事は非常に恵まれた状態までたどり着いたと。だから一気になった訳じゃないんですよね。

質問
そうです、そうです。その気持ちを伝えようと思っても、伝わらないですね。いま非常にどん底にいる人には。

先生
うん、そう。そういう点では、人間の現状と言うものは、過去の行動がつくって現状があるんだと言う事。だから過去において仏道に近づくという方向の努力がなければ、仏道に関心を持つと言う事もありえないし、坐禅をやってみようかと言う気持ちも起きて来ないと、こういう事は事実としてあるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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