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正法眼蔵 都機 6

盤山宝積禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

この様な事が分かって来ると『法華経』の「観世音菩薩普門品」の中で説かれている様に、相手の人が自分が仏(真実を得た人)の姿を現したときに真実を得て救われるという状態にある場合には、仏の姿を現してその人のために釈尊の教えを説くという事があり、また様々の具体的な姿を持った生身の体を現わして相手の人が救われやすいという場合には、自分は様々の形をした生身の体を現わして相手の人のために釈尊の教えを説くという状態があり得るのである。

月の光というものを例にとって考えて見るならば、月の光で照らされるものによって、月の光そのものが様々の違った様子を呈するという事があり、そのことが実は月というものに関連して、月がどのような形で釈尊の教えを説くかという事につながるのである。この世の中における陰、陽の力と言うものが光りとなり、物事の形となって現れる場合に、それはある場合には日の光りによって、ある場合には水の光によってというふうな様々の光明に照らされて生まれて来るのであるけれども、その様な原因と言うものと独立して、いま現に目の前に具体的に姿が現れているという事が端的な事実であり、最も大切な事実である。

現にいま具体的な姿が現れていると言う事は、主観の立場から心だと言う事もいえると同時に、単に主観としての心だけではなしに、具体的な月があればこそ月の姿が現れていると言う事もあるし、それと同時にその様な姿が月として現れていると言う事は、それを見る側の主観、つまり心があるから月が月としてあり得ると言う事にもなる。釈尊なり釈尊の弟子なりが、心(主観)というものを理論的に捉え、また実体として捉える様子と言うものはこの様である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
孤独についておたずねします。私は一昨日飛び降り自殺を目撃しました。その時、私も回りにいた人たちもただジ-ツと無言で見ていました。私、その時すごく孤独を感じたんですね、こんなに人がいるのに、この倒れた人――まだある意味では意識があったんですよね――に誰も声をかけない。救急車が来て連れて行かれるまで、私は茫然としてバカな顔をしてみていたわけですけど。そういう時に仏教と言うのは、人間の孤独と言うものをどう解決して行くんだろうかと思ってしまいましたね。

先生
その点では、そういう問題はすべてやっぱり四段階(苦諦・集諦・滅諦・道諦)で考えると言うのが仏教の考え方だと思います。ですから苦諦と言うものを中心にして考えると、我々は孤独ではない、沢山の隣人がいて、お互いに助け合って生きていると言う考え方も出来るわけですよ。

ただそれと同時に、今度は集諦の面から見ると、単に皮の袋に肉が詰まっていて、血液が動いている、空気が出入りしているというふうな事だと、これはどうも友達と言ってみても、たまたま友達だと言う錯覚を持っているだけの事であって、そういう点では極端な事を言えば、家族といえどもやはり同じ様な物質がやはり2つ、3つ、4つとあるだけのものじゃないかと言うふうな見方もできるわけです。そうすると非常に孤独だというふうな捉え方もあり得るわけですよ。

しかし滅諦の立場、つまり、日常生活の問題になって来ると、そんな暢気な事は言っていられない。家族の面倒も見なければならないし、そうかといって家族の面倒ばかりも見ていられないしと言うふうな事で、あれよあれよと言う間に毎日の生活が過ぎ去っている。そうすると孤独だと言っていいのか、孤独でないと言っていいのか、どっちとも分からん。
 
ただ一番最後の道諦の立場で見るならば、我々は非常に大きな世界の中に生きている、そうすると孤独だとか孤独ではないとかと言うふうなけじめが付けられないほど溶け合った大きな世界の中に生きていると言う事になると、最終的な場面では絶対に孤独ではない。いくら「孤独だ、孤独だ」というふうに自分で思い込もうと思っても、事実としては絶対に孤独ではあり得ないと言う捉え方も出来る。
      
だから四段階の考え方で行くならば、孤独でないと言う考え方が最初にあるとすると、孤独だと言う考え方もあるし、孤独だか孤独でないんだかわからんと言う考え方もあるし、絶対に孤独ではないと言う捉え方もあり得る。そういうふうな事で「じゃ仏教の結論は非常に複雑で、よく分からんじゃないか」と言う事になるわけだけれども、現実そのものがそういう様子をしていると、こう言う事だと思います。

だからそういう点では「孤独だ」と思い込む事が自分自身を孤独に追い込むという場合が非常に多いわけですよね。だからその場合に立場を切り替えて「いや、あんがい孤独ではないんだ」というところに気持ちが移っていけば、悲惨な結果は起き得ないわけだけれども、自分の考えは絶対だと思って「孤独だ、孤独だ」と思い込んで、その考え方を変える事に大変な拒否反応を示していれば、行くところへ行くと言う事が最終の結末にどうしてもなってしまうという場合もあり得るわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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