FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 都機 5

盤山宝積禅師が言われた。「主観としての心と客観としての月が両方一体になったところに月があり心がある。そういう主観と客観とが一体になったものがたった一つの大空にポツンと姿を見せている。この世の中の一切が月の光によってのみ込まれているという捉え方もできると同時に、外界の世界が月の光とは別に独立して存在するという事でもない。月の世界と外界の世界とが両方意識されなくなった状態を実感した時には、一体それをどのような言葉で表現したらよいものであろうか。」

盤山宝積禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この盤山宝積禅師の言葉からわかる事は、釈尊も釈尊の弟子たちも心と月とが一体になった形で心を考え月を考えるのである。主観だけに重点を置くとか客観だけに重点を置くという捉え方をしない。心と言うものがあって初めて月があるのであるし、月があって初めて心の働きがある。

月が大空にポツンと完全な姿で、その月としての姿を現わしていると言う事の意味は、月として何ものも欠けていないという意味である。二つの月、三つの月といういふうな個々の具体的な月だけの問題ではなしに、月の全てを含んだ言葉として万象と言う言葉を使うのである。

万象と言うものは、それを照らしている月があればこそ万象としてあり得るのであり、月の光が照らしていればこそ個々の沢山のものが姿を現しているのであって、月の光がなければ個々の沢山のものは姿を現さないと言う考え方もあり得る。光があればこそ個々の沢山の姿が現れて来るのであるから、光が個々の沢山の姿を呑み込んでいると言う事も出来る。

その様な形で万象が月の光りに照らされていると言う事は、逆に様々の姿が月の光りに呑み込まれていると言う捉え方も出来るから、光りが光りとしての働きを示すと言う事でもあって、その様なところから光が個々の沢山の姿を呑み込んでいると言う表現にもなるのである。月が月として独自の姿を現わしていると言う事も出来れば、光りが実は月そのものであるという捉え方も出来る。

この様なところから、光が外界の世界を照らしていると言うだけが実体ではない。つまり外界の世界があっての光という反対の関係もあるし、外界の世界が独自に光りと関係なしに存在するという事ではない。外界の世界は光りによって照らされればこそ、その姿を現していると言う事も言える。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
月が現在あるとしても、今の月と過去の月とは繋がっていない、現在の月は現在の月であるという事ですね。
と同時にもう一つは因果的な見方で、切れていないから繋がっているという見方もあるんじゃないかと思うんですが・・・。

先生
これは因果的な見方でと言う事ではなくて「月」と言う言葉があると、その「月」という言葉で一切の月が共通に捉まえられる、そういう問題も同時に説いておられるわけであります。

質問
そうですね。

先生
だから、昨日の月と今日の月は関係はないんだけれども、それと同時に「月」と言う言葉があると、昨日の月もその「月」と言う言葉の中に入ってくるし、今日の月もその「月」と言う言葉の中に入ってくると、そういう事が前の段階では説いてあるわけです。前の段階ではそういう事を説いて、最後の段階では、しかし現実には昨日の月は昨日の月、今日の月は今日の月と、こういう説明をしておられる訳です。

だからこういう説明を色々とやって一体何の役に立つんだと、こういう疑問も当然でて来るわけですけれども、こういうものの考え方が仏道であり人生哲学を説くカギなんですね。こういうカギがあると仏教のものの考え方がハッキリしてくるけれども、こういうカギなしに仏教を説こうとすると、いわゆるいいかげんな説明になっちゃうんですよ。で、そういう人の説明を聞くと「ああ、いい事言うなあ」と思って、後で考えてみるとなんだかよくわからない、とそういう恐れがあるわけですね。
   
道元禅師の本はなぜ貴重かと言うと、とにかくカギを具体的に説かれて、「こういう考え方をすれば仏道がわかるぞ」と言う事を言っておられるわけです。だから、大変理解しにくい形で色んな教えが出て来るわけですけれども、その一つ一つが非常に大切で、そういうカギになる様な考え方を把むと、それが基になって仏道が理論的に解けてくるという問題があると思います。


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-