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正法眼蔵 都機 3

「都機」の巻、本文に入ります。

様々な月が具体的に大空に輝いているという事を取り上げた場合に、過去において満月もあった、半月もあった、三日月もあった。昨日も月が出ていた、一昨日も月が出ていた、一昨昨日も月が出ていた。明日も月が出る、明後日も月が出る、明々後日も月が出る。今後とも満月の場合もあろうし、半月の場合もあろうし、三日月の場合もあろう。過去においても様々な月が個々にあったし、今後も様々の月があり得るであろうけれども、それだけではない。

このような理由から釈尊が「仏ノ真法身ハ、猶虚空ノ若ク、物ニ応ジテ形ヲ現ズルコト水中ノ月ノ如シ」と言われた。ここで釈尊が「水中の月の如し」といわれているけれども、その具体的な個々の月や水の現れ方と言うものは、水と月とが一体になっていればこそ、この世の中に現実に現れているという意味に解する事が出来るであろう。水が水として、月が月として現実に具体的にあると言う事に他ならない。

その様なありのままの姿の中に月もあり水もあるという事からするならば、月も水もありのままの姿の中にある。その様なありのままの状態と月と水とが一体になっている。この様な形で月と水の状態について様々な立場から見る事が出来る。水そのものとして見る事も出来れば月そのものとして見る事も出来る。真実と言うものがあって、その中に月もあり水もあるという見方も出来る。水なり月なりが真実と合致しているという見方も出来る。そして「如」という言葉の意味を考えて見た場合に、何か他のものに似ているという事がこの「如」という言葉の意味ではない。

「水中の月の如し」と言う言葉の意味を考えて見るならば、水の中の月と似ているという意味に普通はとられるけれども、似ているという意味ではなくて「如」と言う言葉の意味は、具体的にいま目の前にある、これこの通りであると言う意味である。この釈尊の言葉から考えられる事は、仏というものの本当の実体と言うものはちょうど空間のあり方と似ている。現れ方によって様々の現れ方があり得るという点では、仏の実体というものと空間のあり方とは似ている。また仏の実体と言うものを空間そのものが具体的に表わしていると言う事も出来る。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

宗教と言うものをよく心の問題、魂の問題と言う事で捉えていくと、体の事と関係して宗教を説くと言うのは宗教に対する冒瀆であると言う理解の仕方もあり得るわけでありますが、仏教は心と物とは一つのものだという考え方が常に基礎にありますから、体を正しくする事が心を正しくする事と同じ事だという主張がある訳であります。

ですから坐禅は体育の一種だと、こう言う主張も出来るわけであります。道元禅師も「正法眼蔵」の中で、「心で悟るのか、体で悟るのか、」と言う質問を出されて「体で悟るんだ」と言う事を言っておられると言う事とも関係している訳であります。

それから三番目に滅諦の立場、つまり我々が一所懸命何か行動していく立場から考えていきますと、「身心脱落」という言葉が出てくるわけであります。我々は物事を考える場合に「体」とか「心」とかと言う言葉を基準にして問題を考えていく訳でありますが、実際に行動をしている時には体とか心とかと言う色分けが出来ない、体の事も心の事もすっかり忘れてしまって、ただ一所懸命にやるという境地があるわけであります。

そして坐禅によって何をやっているかと言えば、体とか心とかと言う二つに分かれた区別を乗り越えて、ただ一所懸命に坐っているという事が坐禅だ。したがって、第三番目の滅諦の立場からの解釈としては「身心脱落」と言う事が言われている訳であります。

最後の段階、道諦の段階ではどういう事を言われているかといいますと、道元禅師は「正法眼蔵」の中で「恁麼」と言う言葉を使われるわけであります。「恁麼」というのは宋の時代の俗語でいう「あれ」とか」何」とかと言う言葉でありますが、その他に「打成一片」と言う言葉も使われた。「打成一片」というのは自分の体も心も一つのものになると言う事であります。

坐禅の時の実感と言うものを説明しようとした場合に、色々な説明をしてみても中々その実感が捉まえ難いと言うところから、何か名前をつける事は出来ないけれども、一つのものにまとまる事だと言うふうな実感が坐禅の中にあるわけであります。つまり、体だとか心だとかと言う事を一切忘れてしまって、あるいは体を正しくするとか、あるいはものを考えないとか、考えるとか、そう言う事を全部乗り越えてしまって、ただ坐っている自分というものがどういうものか説明はつかないけれども、その自分がただ坐っているという状態を「打成一片」と言う言葉で表される訳であります。

そういう点では、坐禅の中身と言うものも、やはり四段階の考え方で理解していくとわりあい理解しやすい。つまり「非思量」であるとか「正身端坐」であるとか、あるいは「身心脱落」であるとか、「打成一片」であるとか、そういう表現で次々と考えていきますと、その四段階の考え方を全部重ね合わせたところで、おぼろげながら坐禅と言うものの実体の説明が多少は出来てくると言う事がある訳であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。自営業。69歳。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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