トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 全機 6

圜悟克勤禅師が言われた。「生きるという事は全機能の発現であるし死ぬという事も全機能の発現である」と。

※西嶋先生解説
私は若い時にこの生也全機ノ現、死他全機ノ現(生きるという事は全機能の発現であるし死ぬという事も全機能の発現である)という言葉を読んだ時にわりあい生き死にの問題について決着がついた、という記憶があるわけであります。それまでは生きるという事と死ぬという事とは全く別の事であって、人は誰でもなるべく長く生きたいと思うもんだというふうに感じておったわけでありますが、「生也全機ノ現、死他全機ノ現」という事になると、生きていても死んでしまっていてもそう大した違いはない。

生きている時は一所懸命生きろ、時間が来たらそのまま一所懸命死ねばいいんだと、こういう考え方をしたわけであります。こういう考え方が生き死にの問題というものを解決する面では非常に、私の場合は有効だったわけであります。ああ、もうあんまり心配しなくてもいいな、生き死にの問題は自分の責任じゃないなと、まあ生きている間一所懸命やっていればそれまでだなと、こういう感じを持ったわけであります。

そういう点で道元禅師がこの「生也全機ノ現、死他全機ノ現」という言葉を引用されているという事は、道元禅師ご自身もこの言葉というものを非常に意味深い言葉として受け取られたから引用され他という事が言えるわけであります。生き死にの問題を考える場合にはこの言葉が一番実態に合っているというふうな感じを持つわけであります。




              ―西嶋先生の話―
    --つづき

ただ坐禅をやっているときの境地は「大きい、小さい」と言うレッテルでも説明がつかない、「存在するんだ、あるんだ」と言う決め付けも出来ないし、「存在しないんだ、ないんだ」と言う説明も出来ない。だから言葉ではどうにも説明できないけれども、現に坐禅と言うものがあり、我々が現に坐禅をやったという事実がある。それが何かであるんだけれども、それが何であるかがわからないと、こういう事があるわけであります。それが仏道であり、それが道諦の立場だ。

坐禅と言う実体が我々の手近にあるから、仏道とは何かと言う事が初めてわかるのであって、もし仮に坐禅がなかったならば、我々は「大蔵経」と言う膨大な経典を毎日一睡もしないで頑張って読んだとしても、とうてい仏道が何であるかはわからない。それと同時に、幸い我々の身近に坐禅と言う実体があるために、それを経験する事によって、仏道を理屈ではなしに、実際の体の体験、心の体験としてわか掴む事が出来ると、こう言う問題があるわけであります。


ですからこういう点からしますと、国際的に仏道が伝わっていくという場合にも、坐禅の存在というものは絶対に不可欠だと、こういう問題があるわけであります。中国に仏教が伝わりましたのは、かなり古い訳であります。後漢の時代に仏教経典が中国に伝わって翻訳が行われたと言われている訳であります。したがって教えとしての仏教は後漢の時代にすでに中国に伝わったと、こういうことがあるわけであります。ただ、それから数百年経ちまして達磨大師が坐禅と言うものを中国に初めて伝えられたと、こういう事実があるわけであります。

道元禅師のお考えによりますと、後漢の時代に教えとしての仏教は伝わったかもしれないけれども、実体としての仏道は伝わらなかったと、こういう事をハッキリ主張されている訳であります。実体としての仏道が中国に伝わったのは達磨大師が坐禅と言う修行を中国に伝えられた時が初めてだと、こういう事を言われている訳であります。
                                  つづく--


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-