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正法眼蔵 全機 4

我々が現に生きていると言う事は、この様な重大な事態の中に現にあると言う事であり、この様な重大な事実と言うものは、我々の現に生きているという事実の中にのみ存在しているのである。生きるという事は、どこからか何かがやってくるという形のものでもないし、またその生きているという事実がどこかに立ち去っていくという形のものでもない。

生きているという事が現に今ここにあるという事でもないし、生きているという事実が何かに変化していっているという事でもない。しかしながら生きるという事は全機能の発現であるし、死ぬという事実もまた全機能の発現である。

※西嶋先生解説
我々は生き死にの問題を考えていった場合に、生きるという方が全機能の発現だというのはこれは分かるわけでありますが、死の方が全機能の発現だというのがこれがわからないというふうに感ずるわけであります。ただ仏道の立場からするならば、生きるという事と死ぬという事は背中合わせで、瞬間瞬間の問題であるから、生きると言う事も死ぬという事も全機能の発現に他ならない。

この事はどういうことかというと、生き死にの問題に関連しても、生き死にの問題とは何ぞやというふうな哲学的な論議で悩むよりは、今生きているという事実を大切にして一所懸命生きればいいと、こういうことでもあるわけであります。いつ来るかしれないというふうな事実に対して、死んだ後はどうなるだろうというふうな心配をするよりも、来たときはその時で対処しようという事で、まだ来ないものについて心配するというふうなことは必要がないという事でもあるわけであります。

本文に戻ります。
銘記せよ。生きているという事実を考えて見るならば、自分自身の中には様々な実在が内在しているのであるけれども、それと同時に生きているという事実があり、時々刻々に死んでいっているという事実があるのである。いま現に我々が生きているこの生涯というもの、生きるという事に関連して存在しているところの周囲の実在というものは、生きると言う事実と一つのものであろうか、別々のものであろうか静かに考えてみる必要がある。ほんの一瞬と言えども、ほんの一つの実在と言えども、生きると言う事と関連のないものは何もない。この世の中の一切が我々が現に生きていればこそ実在としてあるのである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

8・不慳法財戒 (法財を惜しんではならない)
法と言うのは釈尊の教え、財と言うのは財産。自分が仏道を一所懸命勉強した事、あるいは自分が財産を持っているという事は勿論結構な事であるけれども、人には全然分けないという事ではいけない。仏道を勉強したと言う場合に、人には教えたくない、自分だけで大事にしておきたいと言う考え方も時々ある。金銭にしても、人にはびた一文やりたくないと言う考え方もある訳です。しかし、そういう状態と言うものは、人間の普通の状態ではないと言う事が言える訳です。

新聞に出ていた話で非常に節約して億単位の金を貯めたけれども、埃にまみれて一人で死んだと言う例があるわけです。そういう点では、普通の人間らしい生活をしている場合には勿論持っているものを大切にすると言う事もありますが、それと同時に有り余るものは人に分けてやろうと言う気持ちも伴うものです。その点では自分の方に入るものだけに関心を持って、出すのは舌も嫌だという事では人間のあり方としては必ずしも普通の状態ではないとそう言う意味です。

9不瞋恚戒 (腹を立ててはいけない)
腹を立てると体の状態そのものが変わってくる。腹を立てている人と言うのは、手足が震えて来るとか、顔が真っ青になるとか、いずれにしても体の変調が腹を立てたと同時に現れてくる。そういう点では、普通の状態ではないと言うところからこの戒律が生まれてきた訳です。

10不謗三宝戒
仏教が大切にしている三つの宝、つまり仏・法・僧と言う宝を誹謗してはならない。道元禅師は戒律に対して、「戒律を守る事を仏道修行の目的にすべきではない」と言う考え方を持っておられた。戒律とは仏教徒の生活における一番外側の枠だと。だからたとえば牧場の例で考えて見ますと、牧場には非常に大きな外側の枠があるわけです。牛や馬はその枠の中で自由自在に遊んでよろしい。ただ枠から飛び出すと危険があるかもしれない。

だから、枠から飛び出さないようにと言う一番外側の枠が戒律だという考え方でよかろうと思う。そういう点では、戒律が有ると無いとでは大いに違う訳で、牧場に外枠がないと馬も牛もどんどん外へ遊びに行ってしまう。非常に危険な場所へ行っても、危険があるという事に気が付かない。だから牛や馬を危険から守るためには、大きな柵を設けて置かなければならないという意味で仏教の戒律もある、という見方でいいと思う訳です。

道元禅師は戒律を受けてから破った場合にはどういう考え方をしなければならないかと言う事について、戒律を受けてから破った場合でも、それでもう致命的な欠点が生まれる様な事は決してないと。その点では戒律に対する考え方については、かなり弾力的な考え方をしておられた。それと同時に仏教徒の生活の外枠の意味で、戒律を受けるという事も道元禅師は非常に大切な事として説かれていると言うのが実情です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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