トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 画餅 5

香厳智閑禅師の言われた「画にかいた餅は飢えを充たさず」について道元禅師の注釈は続きます。

香厳智閑禅師が言われた「画にかいた餅は飢えを充たさず」と言う言葉を様々の僧侶が勉強している状態というものは、過去における真実を得た人、現在における真実を得た人が仏道を学ぶ際の一つの行き方であるけれども、同時に真実をまだ得ていない仏道修行者が人里離れたところに粗末な庵を造って、その自然の環境の中でこの「画にかいた餅は飢えを充たさず」という言葉を一所懸命に勉強しているという例もある。

このように様々の僧侶が仏道修行の一環としてこの言葉を勉強するというやり方が、釈尊以来の仕来りとして正しく伝承されて来ているのではあるけれども、ある人々は経典や論議を勉強していたのでは、仏道の本当の智慧というものが熏修(仏道の修行において師匠と弟子とが一緒に生活することによって師匠の教えが自然に弟子に移っていく)ができないのでこのように言うのだという。またある人々は、声聞、縁覚、菩薩の三乗や、仏の一乗と言った様な教学は、決して正しい真実へ到達する道ではないと言う事を言おうとして、このように言うのだと理解している。

つまり「画にかいた餅は飢えを充たさず」と同じように、経典や論議を中心にして仏教を勉強してみても、本当の仏道の意味はわからないと言うことをこの言葉は示している。一般的に言うならば、仮に言葉による教えは、本当の意味では役に立たないという事を言おうとして、この様に「画にかいた餅は飢えを充たさず」と言う言葉を述べたと理解する人々がいるけれども、その様な理解の仕方は大きな誤りである。

その様な理解の仕方をしている人々は、釈尊以来代々の祖師方によって受け継がれて来たところの努力によって得られた成果というものを正しく伝えておらず、釈尊以来代々の祖師方が主張してこられた言葉の理解に暗いと言わざるを得ない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「熏修」という言葉が出てきましたが、やはりどうしても人間と人間とでないと熏修というのは出来ないものなのでしょうか。たとえば書物等から熏修という事がはありえなかったり、という事になるものなんでしょうか

先生
この「熏」と言うのは本来はたとえば香を焚いて着物に移す様な場合の事が最初の意味なんですよね。だから着物に香を焚き込める時に、狭い部屋の中に香をたいて、そこに着物を掛けておくという事が行われた訳です。それが「熏」という事の意味なんですよね。それがどうして師匠と弟子との間の問題について使われたかと言うと、師匠から、これはこういう意味だ、あれはああいう意味だという事で言葉で仏教の勉強を教わっても、それ以外の事を教わらないと仏道というものはわからないという事があるわけです。

だから、日常生活はどんな事をやってもほっといて、講義の時間になると経典の講義だけをしていると言う事だと、弟子はうまく仏教徒として育たない訳です。そうすると食事の時にも、掃除の仕方についても、こうしろ、ああしろと言う事を教えていくと、そういう動作の中で仏道とは何かと、こういう事がわかってくる。

また師匠が毎晩酒ばかり飲んでおって「お前は若いんだからしっかりやれ」と言う事を言っていても、弟子は中々育たない訳です。しかし師匠そのものが一所懸命に仏道修行をやっていると、弟子は言わなくても師匠の真似をして仏道修行が一所懸命やれるようになる、こういう事がある訳ですよね。だからそういう師匠を弟子が見よう見真似で仏道を勉強すると言う事が「熏修」と言う事の意味です。

質問
そうなると、人間対人間と言うふうに、師匠と弟子と言う関係でないと「熏修」と言う事は成り立たない訳ですね。

先生
そう。だから講義録を勉強したんでは本当の仏道の勉強をした事にはならんと、こう言う事でもある訳であります。

質問
もう一つですけど、そうすると言葉を換えて言うと、先生がよくおっしゃってるように、とにかく坐ることもしなければだめだという事と一つ共通しているように思うんですが・・・。

先生
そういうことです。そういうことです。


ご訪問ありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-