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正法眼蔵 画餅 4

香厳智閑禅師が言われた。画にかいた餅は飢えを充たさず。             

※西嶋先生解説  
香厳智閑禅師は非常な勉強家であって、沢山の本を蓄えて読んでいた訳であります。ところがあるとき師匠から、本から借りてきた言葉ではなしに、おまえ自身の言葉で仏道と言うものを表現してみろ、とこういう質問を受けたときに、香厳智閑禅師はいくら考えても自分自身の言葉で答えるが出来なかった。
 
つまり香厳智閑禅師は本を沢山読んで、借り物の言葉であればいくらでも頭に詰まっていた訳でありますが、師匠に借り物の言葉ではなしに自分自身の言葉で仏道を表わしてみろと言われたら、どうしても返事が出来なかった。そこでがっかりして「画餅飢ヲ充タサズ」と言った訳であります。
  
その事はどういうことを意味するかというと、本をたくさん読んで頭が知識で一杯になったとしても、仏道が何であるかと言う事はよくわからんもんだと言う事に気がついた。そこで「画餅飢ヲ充タサズ」と言って、もう自分は仏道において悟りを得るという事は諦めたという事で、寺の僧侶たちに食事を給仕する仕事をやっていた。その後は山の奥に入って一人で庵の中で生活したと、こう言う話が伝わっているわけであります。

厳智閑禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この言葉を勉強する沢山の僧侶は様々な方角から来た人々である。ある人は菩薩(日常生活を通じて仏道修行をする)であり、ある人は声聞(説法を聞き仏教書を読み仏道修行をする)であり、その名称も地位も千差万別であった。それらの僧侶は非常に頭のいい人もいれば、様子が変わっていて普通の人と異なる人もおり、その性格にしても、経歴にしても、ものの考え方にしても様々な違いがあった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
うちの娘は大学院で修士課程なんですけど、どうも勉強し過ぎる弊害というものを感じるんですよね。現実から遊離してしまうっていうか、頭でっかちと言うか、頭でまず考えてから行動に移る。ワンテンポね、生き生きとしていないってところを、ことに教育界なんかでは子供が敏感にキャッチしてしまう恐ろしさを感じますね。

先生
確かにそういう問題があるんですよ。それでね、学問そのものにそういう欠点があるわけではないけれども、学問のやり方がえてして現実から離れてしまって理屈だけが一人歩きしてしまうと怖いわけですよ。ただ学問と言うのは理屈が一人歩きしても、学問として世間では通用する訳です。で、「あの人の学説はさすがだ」というようなことを世間からは言われるわけですよ、現実離れしていても理論的に通っていれば。

だからそういう学説というものを信じて、それを実際問題に適用しようとすると、うまくいかないというふうなことは非常に多いんですよ。学校暴力なんてこともその点ではそういう事の一つの例で、――中略―

仏教が指摘したのは人間がものを考えるという事は非常に貴重なんだけれども、特に言葉と言うもの、概念というものを使ってそれを理論的に組み立てていくという事は非常に大切なんだけれども、その理論が現実から離れてしまった場合には怖いと、こういう事を言われた。だからそういう点では、理論というものを尊重すると同時に、その理論が現実から離れない様にと言うのが仏教の主張ですよ。

だから、こういう「画餅」というふうな巻の中でも、画にかいた餅そのものと現実とを結びつけたところに本当の画にかいた餅の意味があるし、その画にかいた餅と言うものがあればこそ「餅」と言う言葉ができ、「餅」という言葉を使って人間が生活していけるという事があるんだと、こう言う事ですね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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