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正法眼蔵 画餅 2

「画餅」の巻、本文に入ります。

仏教界において真実を得えられた方々が、単に口先だけの論議ではなしに具体的な体験を通して仏道を身につけているという事があればこそ、この世の中にある様々の事物も現実のものであり架空のものではない。真実を得られた方々の現実の体験に伴って様々の事物も現にこの世の中に存在するのであるけれども、それぞれの様々の事物というものは単に一つの共通の性質、共通の実体というものでまとめ得るものではない。

我々の住んでいる世界の実態というものは千差万別であり、実体を具えたものである。その様に我々の住んでいる世界というものは、たった一つの本質とか、たった一つの魂というもので総括できるようなものではないけれども、我々が現実にそのような世界というものを体験していく場合には、個々の体験、瞬間、瞬間の体験というものが、相互に邪魔することなく、具体的にこの現実の世界に現れてくるのである。


そしてそのような具体的な世界が現れてくる時点においては、具体的な現実というものがお互いにぶつかり合うことなしに、現実の世界に現れてくるのである。これこそが釈尊以来代々の祖師方によって説かれてきたところの極めて簡潔な教えに他ならない。

頭の中でこの現実の世界を考えて、精神的にこの世の中を全部一まとめに理解しようとする考え方や、この世の中は個々の事物が存在する世界だと言う事で個々をばらばらなものとして捉える考え方があるが、この両方の極端な考え方のどちらかを使って、あるいはその両方を使ってこの世の中を推測する事が仏道を学ぶ上での力だと考えてはならない。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
2、3日前に○○さんと言う方の書いた本を見たら、臨済禅と曹洞禅の違いが書いてありました。臨済禅ではトレ-ニングのために公案を持ち出すというやり方でスパルタ的だと言っております。ハッキリ言えば、臨済禅はインテリで曹洞禅はポピュラ-であると。そう書いてあったんですが、坐禅そのもののやり方も違うんでしょうか。臨済禅は「只管打坐」じゃないんですか。

先生
私は臨済禅と曹洞禅は同じだと見ていません。それはどういう事かと言うと、○○さんが臨済禅はインテリの宗教だと言ったとすれば、まさにその通りだと思う。仏教はインテリの儚さを感じて、何とかしなくてはならないと言う事で生まれた思想ですよ。だから自分はインテリだと言う事に自信を持って生きていけるのであれば、それは結構だけれども、釈尊の教えとは別だと言う事、これはハッキリ言える。

まあ、非常に面白い話だけれども、○○さんが仮に自分たちの宗教はインテリの宗教だと言ったとしたら、まさにその通りだと思う。ただ仏教と言うのは頭の中でものを考える事がいかに儚いかという事に気がついて、それ以外の真実が欲しいという事で始まった教えですよ。だからインテリの境涯に留まっていると言う事で満足できるんだったら、坐禅は要らないし、仏教は要らないんですよ。

質問
だってあの人たちの宗教だって、みんな釈尊の教えを追及している訳ではないんですか。

先生
私はそう見ていないです。いわゆるインテリの宗教は仏教ではありえないと言う事を私は感じている。それはどういう事かと言うと、仏教には理論があるんだけれども、その理論は普通の理性で考えられた理論の範囲を超えているんですよ。つまり実際に実行する事も含めて、理論をもう一度組み立てたと言うのが仏教です。だから、実際に実行する事と関係なしに組み立てられた理論と言うものは「仏教ではない」と言う事が言えるわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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