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正法眼蔵 道得 14

雪峰義存禅師と庵の主人である僧侶の説話について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。雪峰義存禅師は庵の主人がはたして力量があるかどうかを実際に検討したのであるし、また庵の主人は雪峰義存禅師に直接お目にかかった。そして真実を言い得たか、真実を言い得なかったか、その辺は問題外として、具体的に庵の主人は雪峰義存禅師によって頭の髪を剃られたし、雪峰義存禅師は庵の主人の頭の髪を剃ったのである。

この様な雪峰義存禅師と庵の主人との説話から推察できるところは、仏道の真実が何であるかと口に出して述べる事が出来る優れた友人というものは、特に期待していなくても突然現れてくるものであると言う事が知れる。この例で言うならば、庵の主人はたった一人で仏道修行の生活をしていたが、雪峰義存禅師のような優れた師匠がわざわざ訪ねて来て、問答を仕掛け、またその問答に付随して頭を剃る事が行われた。

そしてこの庵の主人は特別に言葉で質問に答えた訳ではないけれども、雪峰義存禅師は庵の主人の実体をよく知り、また庵の主人は雪峰義存禅師の偉さというものを十分に知るというところがあった。雪峰禅師禅師にしても、庵の主人にしても、特別に期待していた訳ではないけれども、お互いにその真実を知り合うところの友達に巡り合ったという事ができる。

この様に、友人を十分に理解する仏道の学び方をしているならば、真実を述べると言う事が現実の問題として必ず達成できるものである。
             
             「正法眼蔵道得」
             1242年旧暦10月5日
             観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「やらなきゃならない時にスッとやればそれでいい」と言うのは、こだわりなくやればそれはそれでいいわけですか。

先生
うん、そういう点ではそういうこだわりを乗り越えるためにやるのが坐禅だと言える。坐禅を離れて頭の中で考えていると、さてどっちにすべきか、こうあるべきだと言う事になったり、そう言うこだわりは捨てるべきだと考えてみたり、どっちにしても素直な行動が取れないんです。我々が現実の中の生活で必要なのは、素直な行動という事です。「素直な行動をとるにはどうしたらいいか」と言う一つの方法として坐禅があるわけです。

坐禅によって色んなものの考え方に縛られている状態から脱け出す事、あるいは従来の習慣から抜け出すという事が出来れば、自由自在に動ける様になるわけです。自由自在になった人を仏と言うわけです。だから仏になるために坐禅と言う修行法があると言う事になる。坐禅をしている時が仏になった時だと言う事であるわけです。そういう仏と言うものが身について来ると「こうしなければならない、ああしなければならない」と言う理屈はもう何処かへ行ってしまう訳です。

ただ目の前にある「これをやらなくてはならない、あれをやらなくてはならない」と言う事が、素直に出来る様になるわけです。そんな人生はありえないという考え方もあるが、そういう人生が一番幸福なんです。ところが普通はそうは思わない。色々と本を読んで、理屈をこねて、ものがわかったわからないと言う事に非常にこだわりを持つから、日常の人生を楽しむと言う事が出来なくなってしまう。そういう事があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
夫婦で店を始めて43年。生活=仕事。毎日朝晩自宅で坐禅をし、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」を授かりました。     

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