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正法眼蔵 道得 13

雪峰義存禅師と庵の主人である僧侶の説話について道元禅師の注釈は続きます。

庵の主人もすでに真実を十分わが身に体得していたところから、雪峰義存禅師の言われた言葉に助けられ茫然とせずに済んだのである。すなわち庵の主人は、仏教徒の仕来り通りに頭を洗って雪峰義存禅師の前に現れたのである。この庵の主人の態度は、釈尊ご自身の智慧と言えども至り得ないほどの優れた真実のやり方であって、まさに仏がその現実の姿を現した様子と言えるであろう。

まさにその様な態度によって釈尊の説かれた教えを説いたと言う事であり、まさに生きとし生けるものを助ける行いに他ならないであろう。しかもその事は、特別に世間の人の目を驚かせるような事があったわけではなくて、ただ頭を洗ってその場に現れたまでだと言う事であろう。この様な場合にもし雪峰義存禅師が仏道の修行において十分な境地に達した人でないならば、剃刀を放り出して大笑いするであろう。

ところが雪峰義存禅師はまさに仏道修行に関する力量を具えておられたし、仏道の真実をはっきりと掴んでいた人であったから、即座に庵の主人の頭を剃ったのである。まさにこの情景というものを考えてみると、雪峰義存禅師も仏道の真実を得た仏であったし、また庵の主人も仏道の真実を得た仏であったからこの様なやりとりが行われたのである。雪峰義存禅師も庵の主人も共にはっきり仏道の真実を得た人でなかったならば、この様なやり取りは行われ得なかったであろう。

両者がいずれも龍に譬える事の出来るような立派な人物でない限り、この様な事は行われ得なかったであろう。黒龍の顎の下にあると言われている価値の高い珠は黒龍にとっては非常に大切なものであって、決して誰にも渡したくない宝で常に警戒を怠っていないのであるが、その宝がどうやったら手に入るかという事を理解している人のためには、非常に価値の高い珠を与えてしまうものである。



              ―西嶋先生の話―


なぜ坐禅を釈尊が勧められ、達磨大師が勧められ、道元禅師が勧められたかと言うと、仏教を理論だけで勉強しようと思ったら難し過ぎてわからない。坐禅があればこそ、自分の足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っていればこそ、理屈ではなしに「ああ、これか」と言う事がわかるわけです。「ああ、これか」という事が気がつかなくても、自分の体そのものが法(宇宙秩序)と一体になってしまって、否応なしに法に従って生きていく。 

その事が坐禅をやりながらの生活の実態と言う事になるわけです。だから「正法眼蔵」が難しいと言って決して心配する必要はない。「正法眼蔵」が一文字もわからなくても、坐禅さえやっていれば自分自身が仏道と一体になってしまう。自分自身が仏になってしまう、これが仏教の基本です。

思弁哲学から実践哲学に転換したと言う事が釈尊の教えの基本です。ですから、坐禅をやらないで仏道を勉強しようと思ってもこれは無理。饅頭を食べないで饅頭の味を知ろうと思うのと同じ事で、そんな難しい事は人間の能力をはるかに超えている。それと同時に饅頭さえ食べていれば、説明書きは読めなくても饅頭の味はわかる(笑)。だから説明を読むよりも、饅頭を食べる事に専念する方が仏道を身につけると言う事でははるかに早い。そういう問題があろうかと思うわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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