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正法眼蔵 道得 11

この様な事があってから何日かを経過したある日、雪峰義存禅師は侍者に剃刀を持たせ、雪峰山の近くに庵をつくって住んでいる僧侶のところへあわただしく出かけたが、すぐに庵に到着した。そしてちらっと庵の主人を眺めたが早速に雪峰義存禅師は質問して言う。もし仏道に関連した真実を述べる事が出来るならば、お前の頭を剃らないでおこう。

この質問に関しては十分に承知しておかなければならないことがある。「もし仏道に関連した真実を述べる事が出来るならば、お前の頭を剃らないでおこう」という言葉の意味は、雪峰義存禅師がその僧侶の頭を剃らないならば、僧侶は真実を言い得たと言う認定を得たと聞こえるかどうか。

この言葉が本当に真実を述べた言葉であるならば、結局のところ雪峰義存禅師はその庵の主人の頭を剃らずに済むであろう。雪峰義存禅師のこの言葉は、この言葉を十分に理解するだけの力量のあるものが聞き得るところであり、またこの言葉の本当の意味を理解する力を持った人にのみ説明されるところのものである。

この時、庵の主人は何も言わずに頭を洗って、雪峰義存禅師の前にその洗った頭を差し出して「さあ、剃ってください」と言う態度をした。この庵の主人の態度も真実を述べ得たという事実があって、この様に頭を洗って雪峰義存禅師の前に来たのか。あるいは真実を述べる事が出来なかったいう事で、雪峰義存禅師の前に頭をさし出したのか、その辺の事情を十分に考えてみる必要がある。雪峰義存禅師はすぐさまその庵の主人の頭を剃ったのである。



              ―西嶋先生の話―

仏教ではよく「悟る」という事を言うわけです。「悟る」と言う言葉の意味は、仏教の真実がわかるという事になる訳です。この「悟る」と言う問題に関連して、仏教とは「心で悟るのか、体で悟るのか」と言う問題もある訳です。元来仏教は「体と心とが一つのものだ」と言う考え方が基本にあって、その考え方を「物心一如」と言う。したって理論的に言うならば、仏教は体でも悟るし心でも悟るんだ、体で悟る事が心で悟る事だし、心で悟る事が体で悟る事だという事になる訳です。

ただ坐禅をやっての実感から言うと、体で悟ると言う感じの方が強いと言う問題がある訳です。ですから道元禅師も「正法眼蔵」の中でよく「体で悟る」と言う事を言っておられるわけです。そこで体で悟ると言うのはどう言う事かと言うと、坐禅を表現する言葉として、「正身端坐」という言葉を道元禅師が使っています。「正身端坐」というのは、体を正しくしてきちんと坐るという事です。だから坐禅というは、体を正しくしてきちんと坐る事。そして体を正しくした時は、自分の体全体が正しくなった時、それが坐禅であり悟りだと、そういう考え方をされているわけです。

毎日、自分の体を正しくしているという事は自分の体を毎日健康に保っているという事。また、そういう生活を毎日続けていくならば、人間の体は無限に健康の方向に向かって進んでいくと、そう言う問題がある訳です。坐禅の時は腰骨を真っ直ぐ伸ばしている事がかなり大事な問題になるわけです。腰骨と言うのは人間の体の中心。だから腰骨が正しくなっているという事、背骨も正しくなっているし、首の骨も正しくなっているし、体が左右に傾いていないという事にも繋がる訳です。

腰骨の状態を正しく保つ事が、体全体が健康になるという事と関係ある訳です。そして自分が健康であるという事と、仏道がわかるという事とは同じ事。仏教以外の宗教では宗教と言うのは大体、心の問題だ、魂の問題だと言う。だから体が少しぐらいおかしくっても宗教に一所懸命であれば、人生問題は悩まないという考え方がある訳です。

しかし仏教ではそんな事は言わない。人間は生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、そういう事を主張するわけです。だからそういう点では「仏道の真実を何によって得るか」と言うと、一面から言うならば体で把むと言う事がある訳です。坐禅をやっている時の腰骨の正しい状態を毎日続けて、そういう体の状態を維持しながら人生を生きていくと言うのが仏道修行だ、それ以外に仏道修行はないと言う事も言えるわけです。道元禅師が「悟るのは体で悟るんだ」という事をしきりに言われたのは、そういう意味を持っているわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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