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正法眼蔵 道得 9

趙州従諗禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

趙州従諗禅師の言われている事は何かというと、坐禅の形でジ-ッと動かずに坐って、口では何も言わない状態というものを、真実を得られた方々もこれを啞とは呼ばないであろうし、啞以外の何かだというふうに限定付けることもしないであろう。。啞だとか啞でないとかいう事を超越した状態である。一生寺院生活を離れない、仏道修行をやめないという事は、一生の間真実を説き続けて真実を説く事から離れないという事でもある。

坐禅をして言葉で何も言わない事が10年、15年と続くと言う事は、真実を述べ続ける事が10年、15年と続く事に他ならないし、それは一生の間何も言わない状態から離れないという事であるし、ものを言わないと言う状態を10年、15年と続ける事である。それは100の真実を得た人,1000の真実を得た人を坐禅によって一切を乗り越えることであり、別の表現で言うならば、100人の真実を得た人、1000人の真実を得た人が、お前自身を坐禅を通してふっ切らせることである。

この様に考えてくると、真実を得た方々が真実を述べ得た境地というものは、別の言葉で言うならば、一生の間寺院生活を離れないと言う事であり、一生の間仏道修行から離れないと言う事である。ものを言う事の出来ない啞の様な人であっても、真実を述べると言う境地はあるであろう。啞の人はものを言う事が出来ない、真実を述べる事が出来ないと学ぶべきではない。

そして言葉を述べ得ると言う事が、啞ではないと言い切るわけにはいかない。啞であろうとも真実を述べ得るという事はあるのである。啞が述べている声を聞く事が出来るし、啞の語っている言葉を聞く事も出来る。ものを言えない人の状態、ものを言わない人の境地と言うものは、ものを言わない人でなければわからない。

仏道修行者は特別につまらない事を口に出して言わないと言うところからするならば、啞の人々と同じ様な状態であるけれども、その様な啞同士が一体どの様な形で出会いどの様な形でものを言うのであろうか。この様な勉強の仕方をして、ものを言わない人の境地が一体どういうものであるかと言う事を学ぶべきであり究めるべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
おこがましいんですけど、私は仏教の勉強がなかったら生きがいがないという位、それほど私はいろいろと勉強してきたと思うんですが、ある大学の講座で勉強しているんですが、よく教授が「そんなことをして一体あなた自身に何になるというんだ」と言って杓子定規に切ってこられると、とてもかなわないという感じでいつもいるんですよ。

先生の会に来てお話を伺っていると、名誉や利得とまったく無関係に本当に純粋に自分が求めているものを追究させて下さるのがすごくうれしいし、また同時に環境として私はそれができる。家庭の管理も主人がやってますので私は物質的なものは全く顧みるところが何もない。そういう余裕がある自分は恵まれているといつも思います。だけど、どうでしょうか。生活の経済的な面がある程度のレベルになければ、やはりこういう問題に眼が向いてこないんじゃないでしょうか。

先生
その点では、お金儲けをしちゃいかんという事ではないんですよ。ただお金儲けが問題にならないような生き方という事を言うわけです。だからその点では、経済的に恵まれているから仏道修行ができるとか経済的に恵まれていないから仏道修行ができないとかという事ではなしに、そういう世俗的な目標に対して執着があって離れられない人と離れることのできる人の違いは、経済的な事情がどうこうという事とは別の問題だと思います。

ある程度は関係あるかもしれないけれども、切り離して考える事ができると思います。そういう点で、とにかくそういう経済的な問題を超越できる人を“高貴な人”というんですよ(笑)。これは「正法眼蔵」の中に出てくる見方です。「正法眼蔵」一顆明珠の巻の中で玄沙師備禅師に関連して「仏法の高貴を知りぬ」と。高く尊いことなんですよ、仏道を求めるという事は。だから高貴な人間になるという事が仏道修行をする事と同じ意味だと見ていいと思います。

名誉や利得から超越するというのはなかなか高貴なことですよ。ただそういう高貴な人が初めて仏道修行ができるんですね。だから社会的な地位がどうこうとか、金があるとか無いとかという事と関係なしに、そういう高貴なものを求めるか求めないかという事が仏道修行に関連してあるということが言えると思います。

沢木老師が“宿なし興道”という形で寺院を持たずに一生を過ごされたというようなことも、そういう問題と関係があるんですね。寺院を持つとやはり高貴でいられなくなるという心配があるわけです。必ずそうだとは言えないけれども、そういう心配もあるという事と関係あったと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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