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正法眼蔵 道得 8

趙州従諗禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

人間の一生と寺院生活を考えてみた場合に、その両者の間には広い通路が用意されているとは必ずしも言えない。そこで我々はただただ坐禅をするという事をはっきり見据えるべきである。口に出して何も言う事ができないという事を嫌悪してはならない。口に出して何も言わないという事こそ、真実を口に出して言う事の初めであり終わりであると言う事も出来る。

坐禅の状態で坐っている事は人間の人生そのものであり、その人生が長々と続くのである。ほんの僅かな時間に限って意味を持つというものではない。そのような事情から坐禅をしているならば、仮にものを言わないという事が10年、15年と続いた場合でも、真実を得られた方々と言えども、お前方の事を軽くみたりないがしろにするという事はあり得るはずがない。

坐禅に打ち込んであれこれと口先で論議をしないと言う生活は、真実を得られた方々の眼力をもってしても覗き見する事の出来ない様な高い境地であるし、釈尊の力量をもってしても如何とも動かし得ない強固な境地である。なぜならば真実を得られた沢山の方々もお前方自身をどうにもしようがないという事になるであろうから。


          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

先生
我々の一生というものを考えてみても、名誉のためにやった努力とか、金儲けのためにやった努力というものには、そう素晴しいものはない。これは学者の例で考えてみればいいわけです。お金儲けをしたいためにやった学問の勉強は、これは大したもんじゃないと思う。あるいは文化勲章をもらいたいから死に物狂いで学問をやったって、この学問もそう大したことはないだろう。だから名誉や利得と関係なしに学問のために学問をやるというのがやっぱり一番いい学問という事になる。

芸術でも同じことです。お金を儲けたいからいい絵を描きましょうというんではあんまり大した絵はかけない。人から誉められたいからいい絵を描こうというのでもあんまりいい絵はかけない。いい絵をかくという事は、やはりそういう名誉とか利得を超越して、本当にいい絵をかきたいと思って死に物狂いに頑張るから、やっといい絵がかけるんだろうと思う訳です。

我々が一生を何のために使うかと言う場合、名誉や利得のために使ったんでは勿体ないと言う事情があるわけです。釈尊は人間が満足のいく一生を送るためには、名誉や利得を気にしていたら満足のいく一生は送れないと言う事を言われたわけです。その伝統が道元禅師にも伝わっていたから、道元禅師はしきりに名誉や利得を離れろと言われた。

名誉や利得は汚らわしいから遠ざけて近づけてはいかんと言う、そういうケチな思想ではない。そう言うものに気がとられていると本当の自分の人生がどっかへ行ってしまうぞ、とこう言う事を言われている。だから仏道修行のためには名誉や利得を離れると言う事は非常に大切な事。名誉や利得に関心なしに、とにかく仏道を勉強してみたいという人が本当の仏道修行者であるとこういう事になると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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