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正法眼蔵 道得 7

趙州従諗禅師がたくさんの人々に説示した。 

お前方がもし一生の間寺院生活を離れず、ただただ黙々と坐禅ばかりして何も言わない状態が10年、15年の長きに及んでも、人はお前方のことを啞と呼ぶことはないであろうし、諸仏(真実を得られた沢山の方々)と言えども、お前方をないがしろにする事はあり得るはずがない。

趙州従諗禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この様な趙州従諗禅師の言葉から考えるならば、10年、15年という長きにわたって寺院生活を続け霜柱のたつ冬を何回となく経験する中で、一生の間、寺院生活を離れまいと言う努力、真実の探求というものを考えてみるに、その様な形でひたすら坐禅をして一言もものを言わなかった生活そのものが、ほとんど語り尽くせない程の真実を常に述べ続けていると言う事が出来る。

寺院生活を離れずに、ある場合には経行をし、ある場合には坐り、ある場合には寝たりと言う日常生活は、なに人もこれを啞と呼ぶ事は出来ない状態が無限に続いているという事を意味するのである。

そして我々の一生というものが一体何かという事を考えて見ると、それがどこからやって来てどこに去っていくかと言う実態はさっぱりわからないものではあるけれども、仏道修行から離れないならば、まさに我々の一生と言うものが仏道修行から離れていないと言う事実だけは、はっきりとしていて疑いようがない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
一生寺院生活を離れない人、僧侶がそんなにたくさんできちゃったならば、生活がしにくいですね。働かないんですから。

先生
一生寺院生活を離れないと言う事は、仏道修行を一生やめないという事でもあるわけであります。寺院から出ないという事だけを意味している訳ではなく、仏道修行をやめないということも意味している訳であります。そうすると仏道修行とはどう言う事かという事になる訳だけれども、我々の社会生活に関連して言うならば、欲得を離れて生きるという事でもあるわけです。仏道とは道元禅師の主張などによれば、名誉と利得を離れると言う事でもあるわけです。
 
我々の社会生活とは何のために行われているかと言うと、だいたい名誉と利得のために行われている訳です。だから我々が社会生活をする上においては、いかに名誉を得るか、いかに利得を得るかと言う事で一所懸命努力するわけだけれども、ただ人間が名誉や利得のためだけに一所懸命生きているのかと考えていくと、どうもそれだけではないと言う事情がありそうだと言う事に気が付く訳です。

少なくとも仏道の立場からするならば、名誉と利得だけで一所懸命やっていると、何のために生きているのだか最終段階でわからなくなると言う主張があるわけです。そうすると名誉と利得を離れたところで、何のために生きるかと言う事が仏道を求める事の一つの基準になる訳です。だから一生寺院生活を離れないと言う事、仏道修行を離れないという事は、名誉や利得を離れた生き方をすると、こういう事でもあるわけです。

仏教の勉強をする場合にはこの事が非常に大切。この事がないと寺院生活をしていても、名誉を得るために毎日一所懸命努力しているとか、経済的な利得を得るために毎日一所懸命努力をしていると言う事は現実にあるわけです。それを一生寺院生活を離れない人と言うかと言うと、どうもそうではない。だから寺院生活をするしないと言う事よりも、名誉や利得を離れるという事の方が仏道修行のために必要な事だと、そういう事が言える訳であります。

この話をすると、大抵の人が仏教を嫌になるんです。「せっかく名誉が得たい、金が欲しいと思って一所懸命生きているのに、名誉や利得を離れろなんて言う、それじゃちょっと私は遠慮しておきます」と言うふうに大抵の人は感じる訳です。(笑)
道元禅師が嫌われるのは大体これなんです(笑)。道元禅師は名誉や利得を離れろと言われているものだから、せっかく一所懸命仏道を勉強しようと思う場合でも「いやあ、ちょっとそれじゃ困るからやめておきます」という事になる訳です。しかし仏道修行というのは、やはりどうしても名誉や利得を離れたところで考えていかないと出て来ないという問題があるわけです。
                              つづく--
   

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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