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正法眼蔵 道得 1

「道得」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。                                         

この「道得」と言う言葉の意味でありますが、訓読みにいたしますと「いいえたり」と言う言葉になる訳です。「道」とはものを言うという意味で、「得」とはできる、できたという意味です。ですから「道得」というのは何かを言葉で表す事ができたという意味であります。何を言葉で表す事ができたかと言うと、真実を言葉で表す事ができたという事になるわけであります。ですからその点では、この「道得」と言う言葉は真実を言葉で表す事が出来たと言う意味であります。

仏教においては理屈と言うもについて、その理屈というものが持っている限界をよく承知していると言う事が一つの基本になる訳であります。ですから言葉で色々と説明する事が仏道の真実を得た事にはならないと言う主張がある訳でありますが、それと同時に、やはり仏道の真実というものを本当に理解した場合には、それが自然に言葉になって出て来るものだという考え方もあるわけであります。

そういう点では、仏道における真実を言葉で表現できると言う事は、仏道の真実をつかみ得たと言う事の証拠に他ならないと言う考え方もあって、その様な考え方から、言葉で真実を表現する事が仏道の立場から見てどういう意味を持っているかと言う事がこの「道得」と言う巻で説かれている事柄である訳であります。



              ―西嶋先生の話―

前回は坐禅というものを滅諦の立場から見たらどうなるかという話をしたわけでありますが、今日はそれに引き続きまして、道諦の立場から坐禅というものを考えたならばどういう事になるかという事を話してみたいと思います。道諦の立場から坐禅というものを取り上げた場合に、道元禅師は「只管打坐」という事を言っておられるわけであります。「只管」というのはひたすらという事、それから「打坐」というのは坐禅するという事で、ただひたすら坐禅をするという事を言っておられるわけであります。

なぜこういう考え方が出て来たかと申しますと、坐禅を考えた場合の基本的な理解の仕方として、一つの理解の仕方は、坐禅は悟りを開くためにやるという理解の仕方があるわけであります。それからもう一つの考え方は、坐禅をしている事そのものが悟りだと、こう言う理解の仕方があるわけであります。道元禅師は後者の方の理解の仕方をしておられた訳であります。ですから、坐禅をしている事が悟りなんだから、ただ坐禅をすればいいという事を主張された訳であります。

この教えが坐禅を考えていく上においては非常に大切な考え方だと言えると思います。この考え方を得られるために道元禅師は長い間ご苦労をなさった訳であります。道元禅師は数え年で13才の時に比叡山にのぼられて、14才の時に出家された。15才の時には比叡山の学問に満足がいかなかったために京都の建仁寺で9年間坐禅の修行をされたわけであります。その9年間の坐禅の修行ではどうしても満足がいかなかったと言う事情があるわけであります。

建仁寺というのは今日でも臨済宗の宗派に属するお寺であります。臨済宗では坐禅は悟りを開くためにやるという考え方が基本になっている訳であります。ですからおそら道元禅師は建仁寺におられる時には何とかして悟りを開こうとるいう事で一所懸命努力をされたと考える事ができるわけであります。

道元禅師はご承知のように非常に激しい修行をされた方でありますから、おそらく建仁寺においても妥協する事なく激しい修行をされたものと考えられる訳でありますが、そういう修行の過程の中で「早く悟りを開きたい、早く悟りを開きたい」と言う焦りを持っている限り、いつまでたっても仏道と言うものがはっきりわからなかった。一所懸命努力はしているんだけれども、いつまでたっても「もう少し、もう少し」と言う努力が続いて、焦りの状態でしか日常生活が送れないと言う問題がおそらくあったというふうに考えられるわけであります。

そういう状態から、日本の国で坐禅を勉強し仏道を勉強していたのでは中々究極のところに到達しないかもしれないということを感じられたために思い切って中国に渡られたと、こういう事情があったと思います。                                
                                 つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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