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正法眼蔵 夢中説夢 15

この様なところから雪竇明覚禅師も「自分はいまお前方に釈尊の教えを説く。釈尊の教えを説くと言う事は、夢中説夢――夢の様なこの人生の中で夢のような真実を説いているのであるし、過去・現在・未来のたくさんの真実を得られた方々も夢のような人生の中で夢のような真実を説かれたことに他ならない。

インドから中国に来られて第一代目の中国の仏教教団の祖師になられた達磨大師から大鑑慧能禅師にいたる六代の祖師方もやはり夢のような人生の中で夢のような釈尊の教えを説かれたという事に他ならない。この言葉の意味をはっきりと学び取らなければならない。

また釈尊と摩訶迦葉尊者との間における「拈華瞬目」と言う宗教的なやりとりも、夢中説夢に他ならない。

※西嶋先生解説
拈華瞬目というのは、釈尊と摩訶迦葉尊者との間に取り交わされたやり取りで、釈尊が説法の際に優曇華の花を手に持たれて、その花の示す意味が分かるかという事を暗示的に問いかけた。それに対してほとんどの人はその意味が分からなかったが、摩訶迦葉尊者だけがその意味がわかりにっこりと微笑まれた、という話が伝わっているわけです。

また達磨大師と弟子の慧可大師との間における「礼拝得随」と言う宗教的なやりとりも、夢中説夢に他ならない。

西嶋先生解説
礼拝得随というのは、達磨大師が弟子の慧可大師に仏道の真実を問いかけた時に、慧可大師は黙って達磨大師に礼拝してから、自分の席に戻って叉手をして立っていた。それに対して達磨大師が「我が髄を得たり」と言われた、という言い伝えがある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私、若い時には選択肢がたくさんあったんですね、あれもできる、これもできる、あれもやりたいと。だんだん年を取ってくると選択肢の数が少なくなって、出来る事と出来ない事――幅が狭くなってくる。こういう事を若い皆さん方の前で年寄りがいう事はおかしいですね、やっぱり年寄りの考え方と青少年の考えとはどうしても違う。大体、そのどっちかだと言う二者択一に近くなってきますね。

先生
ええ、そうです。その点ではね、若い時にたくさんの可能性を持っているという事は見ようによっては不幸なことですよ。年寄りになってくるとたった一つのことしかできなくなる。私の場合はたった一つのことしかやらなくなったけれども、その事は非常に恵まれた事だと感じます。

それで若い時に、あれもやれる、これもやれるという状態の時に、自分が幸福感を持っていたかというと結局、幸福感よりは迷いの感じの方が強かったです。何処へ行ってしまうんだか自分自身がわからなくて、あれをやり、これをやっていたという事が何十年も続いていたというのが過去の実績だと思います。

だからそういう点では、若い時と年取った時では状況が違うという事がはっきりあると思います。だんだん数が減っていって、可能性がたった一つしかなくなるという事は必ずしも不幸なことではないという事もいえると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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