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正法眼蔵 身心学道 12

仏教の立場からすると、物の世界も人間の世界も本質的には変わらない共通のものと言う捉え方があると同時に、行いというものに関連して捉えるならば、物の世界と人間の世界とは必ずしも同じではない。戸外の柱や燈籠と同じ様な状態で人間の生活が行われていると言う訳ではない。人間の生活は物とは違い裸足で走って仏道を勉強するのである。とんぼ返りを打って仏道を勉強するのである。このような事実に目をつけるのはいったい誰であろうか。

※西嶋先生解説
裸足で走るとんぼ返りを打つが何で仏道修行になるんだと言う疑問も出て来ると思うわけでありますが、仏道は体の鍛錬と関係がある訳であります。坐禅も殆んど動きのない形ではありますけれども、やはり体の鍛錬と言う面がある。腰骨を伸ばして姿勢を正していると言う事が坐禅の本質であって、その際には腰骨を正しくする筋肉が発達するし背骨を正しく保つ筋肉も発達する訳であります。ですから非常に動きの少ない修行法でありますが、一種の体育であると言えます。

仏道修行と言うのは単に坐禅だけでなしに、体を訓練する場合に仏道修行が必然的にそこに現れてくると言う問題があります。昔の武士は武芸によって一所懸命に自分を鍛錬し、それによって仏道を勉強していった。だから別の言葉では武道と言う言葉があり、それは武芸による仏道という事であります。マラソンの選手はマラソンのレ-スを完走するというだけでも、それに費やされる努力は大変なものです。よほどの鍛錬をしていないと、走りきれないと言う問題がある訳であります。

ですからそういう点では、今日行われているスボ-ツも仏道修行とかなり関係があると言える訳であります。その中で一番伝統的で、一番やりやすくて、しかも一番効果のあるのは「坐禅」だと言えます。その点では様々な仏道修行のやり方があると同時に、その中の代表的なものとして坐禅がある。

本文に戻ります。
その様な具体的な行動によって仏道を勉強していく状態の中では、自分自身が主体的に努力をして真実を得るという場面も勿論あるけれども、周囲の環境について行くという形で仏道を勉強する場合もある。その様な極めて自然な周囲の環境と一体になった生活を続けている場面で、ある時自分の周囲が非常に変わった様子で見え始める時がある。つまり本来自分が持っていた疑いや執着や迷いが一斉に何処かへ消えてしまう場面がある。

その場面において初めて、あらゆる方角に広がっている世界と言うものを勉強する事が出来るようになる。また城砦の東西南北に門がある事で、東西南北の方角が区別できる場面もあるけれども、門が一切ないと言う状況の方が東西南北がよくわかる場面もある。つまり人間のつくったものを一切排除したところに、本当の東西南北が現れてくると言う場面もある。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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