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正法眼蔵 身心学道 4

しかも、この様な心境を捨て去って釈尊の教えを学ぶ場合がある。またこれらの心境を取り上げて釈尊の教えを学ぶ場合もある。そしてその際、頭を使って勉強する場合もあれば、頭でものを考える事を乗り越えた立場で釈尊の教えを勉強する場合もある。ある場合には釈尊と摩訶迦葉尊者との間における様に、釈尊は法を摩訶迦葉尊者に伝えるに当たって金襴の袈裟を与え、摩訶迦葉尊者は釈尊からこの袈裟を受領した。

ある場合には、達磨大師が弟子の慧可大師に釈尊の教えの大意を質問したところ、慧可大師は何も答えずに三度礼拝し自分の席に戻って叉手をして立っていた。そこで達磨大師は「お前は拙僧の骨髄を得た」と言われた。この様な達磨大師と慧可大師との間で行われた仏教上のやり取りがあったという事も、やはり心を通して仏道を学んでいく事の一つの現れである。

ある場合には、大満弘忍禅師と大鑑慧能禅師との間における如く、大鑑慧能禅師が米搗き部屋で米をついていた際に、どの僧侶よりも仏道に対して優れた理解を持っていると大満弘忍禅師が知り、大満弘忍禅師はその力量を認めて大鑑慧能禅師に法を伝え袈裟と鉢孟とを与えられた。その様な心と心の触れ合いによる学び方もある。

仏道修行をしようと言う気持ちを起こして髪を剃り墨染の衣を着るという事も、自分のもっている気持ちを大きく方向転換する事であり、自分の心とは一体何かという事をはっきりさせる事である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
宗教家、教授、そういう類の人はやっぱり片寄った世界に生きていると思います。だけど先生は我々と同じレベルで、一つの企業の中に入って、そういうところの大変さ人間関係とかいろいろな面で・・・。宗教家や教授のように専門的に仏教の言葉だけを教えると言うのはやっぱり、私が見ている感じでは薄っぺらいと言う感じがしてしまいます、経験的に。

先生
私の場合、自分を振り返ってみて非常に我がままな生き方をしたという事は言えると思いますね。その事はどう言う事かと言うと「名利の心を離れろ」と言う事に関係しています。名利の心を離れろと言うのは「我がままな生き方をしろ」と言う事です。人間には我がままな生き方をする義務がある、とそれが「正法眼蔵」の教えですよ。

ところが世間のしがらみに縛られると、それについて行かないと損をするとか、それについて行かないと仲間外れにされてしまうとかと言う事で、我がままな生き方をみんなやらないんですよ。仏道と言うのは我がままな生き方をしながら、しかも道から外れないと言う事です。

だからそういう点では、名利の心を離れると言う事は、決して山の中に入って食べたいものを食べないで我慢する事ではない。たとえば社会で一つの職業に就きますとグル-プがあるわけですよ。つまり学会なら学会でグル-プがある。そう言うグル-プの中に所属していないと、学者としては中々うかばれないと言う面があるわけです。うかばれたいためには嫌な事も我慢をすると言う事もあるわけですけどね。そう言う生き方と仏道の生き方は別だと言う事です。それは社会から飛び出して生きるという事ではなくて、社会の中に生きておりながら、しかも自分の良心に従って生きるという事。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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