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正法眼蔵 身心学道 2

この様な形で釈尊の教えというものを学ばないと、釈尊の教えから遠ざかってしまい一体何のために生きているのかわからなくなってしまうから、過去において真実を得られた方々も、後の世において真実を得られた方々も、例外なしに釈尊の教えというものを実践の形で修行されたのである。

※西嶋先生解説
ここで修行という言葉が出てまいりますが、宗教の中でも修行というものを非常に重要視する特徴というものが仏教にはあるわけであります。仏教の考え方の根本は、人間の価値というものは人間が何をするかによって決まるという考え方があるわけであります。人間の働きにも、頭がいい働きとか、センスがいい働きとか、二通りの働きがあるわけでありますが、その他に人間が手を動かし、足を動かして何をするかというふうな問題があって、仏教には人間が何をするか、自分の体をどういう状態に置いておくかという事が人間の価値を決めると、こういういう思想がありますから、修行というものをが非常に大切にする、実践というものを非常に大切にするわけであります。

本文に戻ります。
その様な釈尊の説かれた真実というものを学ぶに当たって、とりあえず二つの方法がある。一つは心で釈尊の教え学び、もう一つは体で釈尊の教えを学ぶ方法である。「物心一如」を基本原則とする仏道の立場からするならば、仏道というものは心でも学ばなければならないし、体でも学ばなければならない。そのことは「正法眼蔵」を読まなければならないし、坐禅もしなければならないという意味でもある。



       ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は先生のご本「仏教―第三の世界観」とか「サラリ-マンのための坐禅入門」などを拝読して、いろんな方の本を読んでみましたが先生のが一番よくわかるんです。とにかくそういう実感があるんですね。どうしてだろうかと考えて見ると、先生は宗教を職業としない、いわゆる経済界の人だからですか。

先生
まあ、私は社会生活が長かったですよね。私の本がよくわかるという事については仏教そのものにそういう性格があると思います。つまり日常生活の事を取り上げて論議しているわけですから。その点では、我々が日常生活で誰でもが感じる事考える事が仏教の教えとなって文字になっている訳ですよ。だから仏教の思想というのは本来がそういうものだと思います。
   
だから「正法眼蔵」をずっと読んでみましても、道元禅師ご自身も自分の生活の中に出て来なかった事は言っておられないと思います。つまり、昔中国の僧侶の人が書いた色々な本を読んだ訳ですけれども、その中から自分の生活の中で経験した事を引用して来て解説しておられる、そういう面があると思います。だからそう言う点では、仏教そのものが、日常生活をどうやって生きるかと言う事に尽きるという面があると思います。

 
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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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