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正法眼蔵 身心学道 1

「身心学道」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「身心学道」というのはどういう意味かといいますと、「身心学道」という言葉は「身学道」と「心学道」との二つに分かれる。発音でいうと両方とも「シン学道」でありますが、一つは体による真実の勉強、それからもう一つは心による真実の勉強という意味であります。

仏教思想というのはその基本に「身心一如」と言う思想があるわけであります。体と心とは一つのものだから、どちらに重点を置き過ぎても間違いを犯すと言う考え方が基本にある訳です。ですから「学道」、真実を学ぶという場合でも、体も大切だし、心も大切だという事を主張するわけであります。その二つの勉強の仕方が大切だと述べられたのが、この「身心学道」の巻と言う事になります。

「身心学道」の巻、本文に入ります。
仏道(釈尊の説かれた真実の教え)を実践しないならば仏道の把握は不可能である。仏道を勉強する必要はないと考えるならば、時の経過と共にますます仏道から遠ざかってしまう。南嶽懐譲禅師と大鑑慧能禅師との問答でも、修行とか体験とかというものがないわけではないけれども、それを二つに分けて、悟りを得るために坐禅をやるという事ではけがれた状態になると言われている。釈尊の説かれた教えを勉強しないと、たちまち外道(げどう)・闡提(せんだい)の教えに落ち込んでしまう。

※西嶋先生解説
外道について――古代インドにおいて、釈尊が生きておられた時代にも、釈尊の教え以外に沢山の教えがあった。その代表的な教えが婆羅門(紀元前1200―1000年位の中で生まれたの思想)の教えです。その考え方というのは今日の考え方から言うならば精神的な教え。我々の持っている魂というものは非常に大切なんだからそれを大切にして、我々を創ってくれた神に祈るならば、死後の世界において幸福が得られると言う考え方であります。ですから今日、普通に宗教と言われている考え方と同じ様な思想であります。
 
それから釈尊の教えとは違った教えで、もう一つ別の思想は六師外道と言われた思想であります。、これは六人の思想家がいて、その六人の人たちは物を中心にした考え方を述べた。我々の体は体細胞の集合であって物質でしかない。だから善悪というものもないし、良心というものもどうでもいいんだ。我々の日常生活はもう過去から決められていて、決まった路線を歩くしかないんだ。だからできるだけ楽をして、暢気に過ごした方がいいと言う考え方でもあったわけであります。
 
それから闡提について――真実と言うものはどうでもいい。真実というものに関心をもって一所懸命勉強することは極めてバカな話だ。何もそんなくだらんことに時間を費やす必要はない。そんなことに苦労する必要はない。この世の中はのんびり行けばいいんだ、という考え方が闡提と言われる人々の考え方であります。つまり、いろんな価値というものを全部無視してしまって、そんなものはどうでもいいんだ。もっと世俗的にお金がもうかればいい、地位が上がればいいという考え方であります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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