トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 光明 19

羅漢桂琛禅師が言われた。「典坐和尚(寺院における炊事係)は、庫裡(台所)に入って食事の準備に余念がない」と。

羅漢桂琛禅師言葉について道元禅師が注釈されます。
寺院生活において、炊事係である僧侶が食事を作ろうと庫裡の中に入って行ったこの情景は、七仏(釈尊以前におられた六人の真実を得られた方々と釈尊とを言う)がおられた遥か以前の事柄であり、その事は永遠の意味を持った事柄である。この様な日常生活のきわめて普通の事が永遠の意味を持っている。その事は、我々の人生とは何かと言えば、日常生活を一所懸命やって行くと言う事に尽きる。それが人人であると同時に光明である。
                       
             「正法眼蔵光明」
             1242年旧暦6月2日午前1時
             観音導利興聖宝林寺において沢山の人々に説法した。
            
そのとき梅雨の雨が降りしきっていて、軒先には雨だれの音が激しかった。「いったい光明とは何か」と言う問いかけをした場合に、説法を聞いている沢山の人々は、この事について十分の理解がつかず、雲門禅師の言葉によって一切を見透かされていた様に感じられる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
「法華経」の序文に仏(釈尊)の眉間の白毫相が光明を発して、菩薩、摩訶薩が光明に浴したという事がお経にありますが、あの白毫相の光明というのはどういうものなんでしょうか。   

先生
これは言い伝えによりますと、釈尊の眉間には白い円く巻いた毛があったという言い伝えがあるんですね。これは釈尊の三十二相というふうな、どういう様子をしておられたかという事の中の一つに出てくるわけです。ただ「法華経」をどういう形で理解するかと言いますと、坐禅をやって仏道というものをはっきり分かった方が一つの文学作品を書かれたというふうに見たらいいと思います。ですから、白毫相を見て沢山の仏(真実を得られた方々)が喜ばれたという事も、この世の中、あるいは宇宙の中における素晴らしさを一つの文学的な表現として表わされたとみていいと思います。

質問
そうすると、大衆を救おうと言う大慈大悲の気持ちが皆さんの喝仰に答えたというような・・・。

先生
それと同時に「法華経」の中に出てくる表現そのものが、我々の生きている生活そのものの表現だという捉え方もできるわけです。だから我々が一所懸命日常生活をやっていること自体が「法華経」の中に説かれている事と全く違わないというふうに見ていいと思います。

質問
どうもありがとうございました。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-