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正法眼蔵 光明 18

雪峰義存禅師がたくさんの人々に説示して言われた。「坐禅堂の前で皆さんといまお会いした、そしてそのお会いする事がすでに終わった」と。

雪峰義存禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この状況を考えてみるならば、雪峰義存禅師ご自身の体全体が生き生きとした眼の玉になって、一切がありありと見えていた境地を言うのであり、雪峰義存禅師が雪峰義存禅師ご自身を覗き見ることのできた時期である。自分とは何かという事を知り得た時期を意味しているのである。その事はどういう事かというと、坐禅堂は坐禅堂はとして理屈も何も言わないでそこに建っていた、厳然としてそこにあったという事を意味するのである。

この雪峰義存禅師の説話を取り上げて保福禅師が鵝湖禅師に質問して言うには「雪峰義存禅師が坐禅堂の前でどんな事を言われたかはともかくとして、多くの人々が自分自身に出会ったという望州亭や鳥石領とは一体どんなところですか。

この質問に対して、鵝湖禅師は急いで自分の部屋に帰ってしまった。すると保福禅師も自分も坐禅をしなくてはとさっさと坐禅堂の中に入って坐禅を始めた。

保福禅師と鵝湖禅師の問答について道元禅師の注釈です。
ここで鵝湖禅師が自分の部屋に帰り、保福禅師が坐禅堂に入って坐禅を始めたと言う事は言葉で問答をしている事ではなくて、自分の体を使って自分の行動をした場面である。保福禅師も鵝湖禅師も真実を得た人としてお互いに問答をしあい、それぞれの境地において自分自身の行動を具体的に示した事に他ならない。保福禅師は保福禅師のやるべき事をやったし、鵝湖禅師は鵝湖禅師のやるべき事をやった。それと同じ様に、坐禅堂も坐禅堂として本来の場所に厳然と建っていた事に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅をすれば百人百色でもって、その人その人の捉え方というものがあってしかるべきだと思います。こうでなくてはならないというパタ-ンにはめ込むものではないと思うんですが、・・・。

先生
うん。それと同時に坐禅の究極というものは誰でも同じです。という事は、我々が「正法眼蔵」を読んでなぜ感激するかといえば、我々自身の中に「正法眼蔵」に説かれてたものと同じものがあるからですよ。我々が坐禅をした時になぜ気持ちが落ち着くかと言えば我々の中に坐禅と同じ境地のものがあるからです。それが外に出てくるだけですから。そうすると、仏道修行というものは誰の場合でも結局は同じものだという事が言えると思います。

そうでなければ我々が道元禅師の心境がわかるはずがないし、釈尊の心境がわかるはずがない、天童如浄禅師の言われていることの意味が分かるはずがない。曲がりなりにもわかるという事は、我々すべてが共通のものを持っているという事です。特に坐禅という修行法を経験した以上、その坐禅という共通の修行法を通じて誰でもが同じものが体験できるというのが釈尊の教えだとみて間違いないです。それだけに坐禅は有り難いんです。

だからそれだけに、坐禅なしに仏道があり得るかというと私は絶対にありえないと思う。だから私が坐禅、坐禅というのはそのためなんです。それと同時に私が嫌われるのもそのためなんです(笑)。坐禅という事が書いてなければ、仏教書は読み物としては面白い。あいつ(西嶋)の本は、坐禅、坐禅と二言目には書いてあるから読む気がしないというのが実情だと思います。

ただ私は坐禅、坐禅という事を書かないと仏教を書いた事にならないと思うから、人から嫌われるようでも坐禅、坐禅と言うし、書くし、するしかないんです。それ以外に仏道というのはないですよ。、そういう風な関係があると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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