FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 光明 17

雲門文偃禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

今ここに言う雲門文偃禅師、過去七仏、達磨大師、大鑑慧能禅師、我々の行動、我々の生命というものが、坐禅堂、仏殿、厨庫、三門と同じだ、それが光明だと仮に理解したとしても、その真実を得られた方々がいづれも一人一人の人間である事には変わりがない。その様な個々の人々であるから、個々の人々と言う言葉で表わされたものではなくて、具体的な現実の人を意味するのである。

この様な捉え方で光明と言うものを考え、坐禅堂、仏殿、厨庫、三門というものを考えてゆくならば、現に眼の前に仏殿と言う建物があって、しかも釈尊が説かれたところの仏としての性質を問題にしない様な仏殿が現に目の前にあるという事も言える。仏殿と言う具体的なものが眼の前になくて、釈尊の説かれた仏の性質も目の前にないと言う事態もありうる。

光を持った仏(真実を得た人)もあるし、また別の場面では光を持たない仏(真実を得た人)もいる。つまり仏と言うものの現れ方でも、非常にありがたい、非常に尊いという形の現れ方もあれば、少しも尊くないと言うふうな平々凡々とした仏の現れ方もある。仏という決めつけは必要としない、光そのものが現にあるという場合もあれば、仏という性質がいっぱいに漲った光というものもある。

※西嶋先生解説
光とか、仏殿とか、あるいは仏性があるとかないとかという事を様々に組み合わされて、我々の生きている現実というものの現れ方は実に様々である。たった一つの形に決めつけるわけにはいかない。そういう複雑な実体そのものが光明であり、仏性であり、仏殿であると、そういう説き方をしておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき   

仏道修行というのはこれが基本であります。坐禅を通して自分の体を正しい状態に入れてしまう。そうすると、その正しい体の状態、正しい心の状態が日常生活で何をしなければならないかと言う事を自然に教えてくれる。そういう形で、坐禅をやった時に生まれて来るものを智慧と言うわけであります。智慧というのは、頭がいいとか悪いとかと言うのではなしに、正しい判断の基準という事であります。

我々の日常生活の中で何が大切かと言って、正しい判断が非常に大切であります。我々の日常生活でいつも自分の行く道が二またに分かれている。どっちに行ったらいいかと言う事は、考えていても結論は出て来ない。その場その場で「あ、これは右に行くべきだ、これは左に行くべきだ」と言う事で、瞬間瞬間に決断がつかないと、我々の日常生活はへどもどして、行ったり来たりして、努力ばかりしているけれども、結果がサッパリ良くないという事になる恐れがあるわけです。

そういう状態から抜け出すためにやるのが仏道修行、そういう状態から抜け出すためにやるのが坐禅だと、こういうことが言えるわけであります。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-