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正法眼蔵 光明 16

雲門文偃禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

説法を聞いている人々が返事をしなかったので、雲門文偃禅師が自分で変わって答えて言うには、「個々の人々が持っている光明というものは、眼の前に見えている坐禅堂、仏殿、厨庫、三門である」と。

いまここで雲門文偃禅師が「自ら代わって答える」という意味は、雲門文偃禅師が自分自身に代わって言われたという意味である。同時に説法を聞いている沢山の人々に対して自分が変わったという意味でもある。また各人が持っている光明というものに自ら代わったという意味でもあるし、坐禅堂、仏殿、厨庫、三門に自ら代わってという意味でもある。

しかしながらここで雲門文偃禅師が坐禅堂、仏殿、厨庫、三門と言う言葉で、何を示そうとしていたのであろうか。説法を聞いている沢山の人々や個々の人々を坐禅堂、仏殿、厨庫、三門と呼ぼうとすべきではない。なぜかというと、それらが共通の光明の現われではあるけれども、坐禅堂は坐禅堂としてある、仏殿は仏殿としてある、厨庫は厨庫としてある、三門は三門としてある、説法を聞いている人々は説法を聞いている人々であるし、個々の人々は個々の人々として生きているのである。

ここで雲門文偃禅師は光明の一つの例として坐禅堂、仏殿、厨庫、山門を挙げたけれども、それと同じ様な意味での光明を表わす例は一体どのくらいあるであろうか。雲門文偃禅師ご自身だと言ったらいいのだろうか、過去七仏と言うべきであろうか、第28祖の達磨大師と言ったらいいのであろうか、中国第6祖の大鑑慧能禅師と言うべきなのだろうか、むししろ我々の日常生活の行動というべきであろうか、我々の生命というべきであろうか。



             ―西嶋先生の話―
    --つづき

文字というものはある意味では非常に不自由なもので、読む人の立場によって、もっと厳密に言うならば読む人の体の状態によって、様々の意味にとれるという性質があるわけであります。ですから読む人の体が仏の状態になっていると、「正法眼蔵」を正しく仏教の立場から読む事ができると同時に、読む人の体が仏の状態になっていないと、「正法眼蔵」の意味が仏教以外の意味にとられてしまうという事があるわけであります。

ですからその点で「正法眼蔵」を読む事と坐禅をする事とどっちが大切かという問題を考えていきますと、前回にも話したように、両方大切だという事は言えると同時に、坐禅をする事の方がなお大切だと、そういう事を「只管打坐」という言葉で道元禅師が表現された、こういうふうに言う事ができるわけであります。

「正法眼蔵」95巻本の並べ方では一番最後の方にある巻でありますが、「生死」の巻の中に、今の問題を非常に分かり易い言葉で述べられた文章があるわけであります。「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころとどこほるべき」それを読んでみますと、坐禅をするという事を仏の家に自分の体を投げ入れるという、そういう表現を使われておるわけであります。

ここで言われている事は、自分の体、自分の心というものをまず坐禅と言う形で仏の家の中に投げ込んでしまうと、仏の方から影響が現れて、自然に自分が何をしなければならないかと言う事がわかって来るから、その教えに従って日常生活をしていくならば、別にこれと言う努力をしなくても、気持ちの上であれこれと思い悩まなくても、生き死にの問題を離れて自然に仏になってしまう。誰がその様な状態になった場合に、あれこれと心配事、悩みを心に留めておく必要があろうと、こういうふうに言われておるわけであります。
                            つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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