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正法眼蔵 光明 13

雲門山に住んでいた雲門文偃禅師は、釈尊以来摩訶迦葉尊者を初代として第39代目の仏教教団の指導者であり釈尊の説かれた教えを雪峰義存禅師から伝えられた。

雲門文偃禅師は仏道を勉強する人々の間では比較的遅くこの世に現れた方ではあるけれども、達磨大師の門下においては非常に優れた人である。誰が雲門山には光り輝く真実を得た人はいまだかつて現れた事がないという事ができよう。つまり雲門文偃禅師は光り輝く真実を得た人であったと言われている。

雲門文偃禅師があるとき法堂に上がって正式の説法をした際に言う。
人は誰でも光明(輝かしさ)と言うものをそれぞれ持っている。光明を持っていない人は一人もいない。光明は眼で見える光ではない。光明は体全体で感じられる光である。だから光明はいくら眼で見ようと思ってもどこにも見つからない。では各人が持っている光明は一体どこにあるのだろう。

この雲門文偃禅師の質問に人々は返事をしなかった。

そこで雲門文偃禅師が自ら代わって言う。  
各人が持っている光明とは、眼の前に見えている坐禅堂、仏殿、厨庫、三門等である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私、マズロ-心理学研究会でレポ-ターとして発表しなければならないんですが、精神的に健康な人間であれば、過去・現在・未来とこの3つの時間の流れの中に一貫して生きている自覚を持っているけれども、不健康な人間は、過去の自分は自分でないと言う無責任な事を言ったりする。そうなってくると、仏教で言う瞬間瞬間と言う考え方と照らし合わせながら考えているんですが、その辺がわかんなくなっちゃったんです。

先生
仏教の時間に対する考え方は、やはり四通りの考え方を持つんですよ。1つ立場は将来に期待するわけです。だから、今はだめだけれども、そのうちよくなりますという考え方が1つある。そうすると次の考え方は、これから以降どんなに頑張ってもだめですという考え方もある。それから今生きているんだから一所懸命やるしかないんだという考え方もあるわけです。時間を考える場合に、こう言う3通りの考え方があるんですよ。

そして坐禅をしていると、その3つの考え方のどれでもないけれども、一番落ち着いた、一番まともな状態に自分が置かれるという事です。で、4番目の状態を基準にして人生を考えていくと、将来だけを頼りにしていく生き方もどうも本当かなと言う気がするし、そうかと言ってもう過去によって決められているんだから、もうとてもいくら頑張ってもだめだという考え方も、どうも一方的じゃないかという気がするし、いま何となく訳はわからないけれども、夢中になってやっていればいいんだということも、それだけでいいものかなと言う考え方が出て来る。

そしてそういう三つの考え方のどれも頼れないとすると、まあ、他にやる事がないから、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ツとしていましょうと。そうすると、何もわからないんだけれども、何となく3つの考え方のどれ1つをとってみても、どうもそれだけではうまくいきそうもないと言う実感が湧いて来るというのが仏道の考え方です。
 
だから説明としては難しい訳です。何の問題についてもそういう説き方をするから。だけれどもこう言う考え方が、人間の生き方とか、社会の動きとか、世界がどうなっていくかと言う問題に関連してはかなり大事な問題を持っていると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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