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正法眼蔵 光明 11

憲宗皇帝と家臣韓退之との問答について道元禅師の注釈は続きます。

そこで長沙景岑禅師が言われた「この我々が住んでいる宇宙というものは、自分自身が出している光である」という言葉を詳細に勉強して見る必要がある。光り輝く自分自身というものが、実は宇宙と同じものだという事を意味しているのだという事を勉強してみるべきである。

※西嶋先生解説
日常生活における明るさといってみても自分自身の明るさだという事を言っておられるわけであります。我々は日常生活において、暗い場合もある、もう世の中で生きていくことが嫌になってしまう場合というのはいくらもある。そうかと思うと、何となく今日は気分が明るい、晴れやかだ、生きていることもまんざら悪くないと感じることもある。そういう明るかったり暗かったりする我々の日常生活の中で、今日は実に明るいという気分の時には自分自身の光が宇宙そのものを照らしている時だという意味。

本文に戻ります。
我々の具体的な毎日の日常生活というものは、光や輝かしさが現れては消え現れては消えている。仏道修行をして凡人だとか聖者だとかという区別がなくなってしまった境地というものも、光が藍とか朱とかという一定の具体的な色を示し様子を示していることに他ならない。だから仏道修行によって得られる境地というものも光というものの具体的な現われでしかない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私が思いますに、もし釈尊が現代に生きておられたらあれだけエネルギッシュな方ですから、航空機を使い平和を説いて諸外国を回られたのではないかと思うんですが。

先生
私はその点についてはちょっと疑問を持つんですよ。それはどう言う事かと言うと、平和を唱える事によって平和は来ないという事。これは大事な事ですよ。「平和、平和」と大声で怒鳴る事で、平和は決してもたらされない。

質問
じゃ、何を言えばいいんですか。

先生
個人生活ですよ。各人の生活が平和であって、その総合の上にのみ平和は生まれるんですよ。だから平和と言う思想が平和をつくらないと言う事。平和であれと言う主張が平和な状態を生まないという事、これは言えるんですよ。これは日本の国の動きと言うものを、過去にさかのぼって考えてみてもよくわかる。大正から昭和の初めにかけては「平和、平和」と喧しいほど言ったんですよ。それが昭和10年頃になると戦争に行っちゃっているんです。昭和20年になって以降は、また「平和、平和」と言った訳だけど、そういう風潮がもう一度戦争に行かないとは限りませんよ。
   
平和と唱えているだけでは決して平和をもたらさないという事、そう言う事は私はあると思います。まあそういう事を言うと、多少非難がましいような事に聞こえますけれども、決してそういう意味ではない。だから平和を唱える事は大いに結構だと思いますが、私にはよくわからないと言う面があります。
   

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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