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正法眼蔵 光明 7

長沙景岑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

具体的な場所はどこであろうとも、釈尊の教えを論議しているその具体的な場所の中心そのものが「東方」と呼ばれる場所である。我々の日常生活における行いの中心そのものが「東方」と呼ばれる場所であり、その「東方」と呼ばれる場所は光に輝いた場所である。

我々はその様な具体的な場所において行動するのであるから、そういう具体的な場所の拘束を受けていると同時に抽象的な輝きと言う事ではなしに、現実の場面において輝きそのものに満たされた形で行動し生きていくのである。この我々の住んでいる世界にもその様な具体的な場所があるし、我々の住んでいる世界以外においてもその様な具体的な場所と言うものはある。具体的な場所とは、どこにでもある独立独歩の場所だと言う基本的な考え方を学ぶべきである。

「法華経」の中では、18000と言う非常に多くの仏の世界というものが説かれているけれども、その様な大きな数が何を意味するかというと、我々の日常生活における具体的な、あるいは中途半端な行いそのものである。その様な中途半端な我々の行いと言えども、まさに仏の心と言われるものと同じものである。必ずしも、10000と言う数は1000の10倍と言う限定された数の意味ではない。10000が10000寄った数というふうに限定された数の問題ではない。

釈尊の住んでいる真実の国土というものは何かと言うならば、我々の眼に見える範囲のものである。東の方角を照らと言う言葉を見聞きして、一筋の光が一直線に東の方に引き渡されていると想像する事は釈尊の教えを学ぶ事ではない。全宇宙とは具体的な場所の事である。自分自身が現に動いている場所、生きている場所を全宇宙と言う。我々がが生きている具体的な場所があればこそ、全宇宙というものも初めて存在するのである。そして全宇宙と言う思想を説法される事によって、18000と言う無数に存在すると考えられる真実の世界と言うものが初めて我々の耳に響いてくるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は光明という問題は、人間が仏道によって邪念とか色々なものが取り払われて来て、清められていくというか単純になるというか、そうなってくると余計なものがなくなるから光り輝いて当然だと思うんですね。しかし読んでますと、そうじゃなくて、事物そのものが、世界全体、宇宙全体が光り輝いているのだと。そうなってくると非常に難しくて・・・。

先生
うん、そう。だからそういう点では、仏道というもの、あるいはここで説かれている、光明とは何かと言う事を考えていくと、すべてのものがありのままに見えると言う事だとも言えると思うんですね。その状態とはどう言う事かと言うと、普段我々は色んなメガネをかけているという事ですよ。色メガネをかけて、赤い色のメガネをかけて「この世の中は真っ赤だ」と言うふうな主張する人もいる訳ですよ。そうかと思うと、青いメガネをかけて「この世の中は真っ青だ」と言う主張をしている人もいる訳です。

すると青いメガネをかけた人と赤いメガネをかけた人とが「お前の方が間違っている!」と言うふうに言い争って、命がけで戦っていると言うのが我々の社会の実情ですよ。それから真っ黒で何も見えないメガネをかけて「この世は真っ暗だ、真っ暗だ」と言う主張をしている人もいる訳だけれども、仏道修行をしてそういうメガネを外してしまえば、ありのままにそのまま見える。で、そのまま見えるという事が釈尊の説かれた光明だと、そういうふうに言われているわけですね。

質問
それならよくわかりました。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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