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正法眼蔵 光明 5

長沙景岑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

この様に釈尊の説かれた光明( 輝かしさ)というものに直接であう事が出来ずに、はるか彼方に離れた状態で生きていた人々が考えるには、仏光(釈尊ご自身の持っておられた輝き)も、自己光明(自分自身がが持っている輝き) と言うものも、赤、白、青、黄と言うような色彩によって代表される物質的な明るさであって、それは、日の光や水の光のようであり、真珠の光や宝玉の光のようであり、龍や神々の光のようであり、太陽や月の光の様であるはずだと解釈している。

ある場合には高徳の僧侶に従い、ある場合には経典に従って釈尊の教えを学んでいく場合にも、光明に関する教えを聞く場合には、これは蛍の光の様に光り輝くものだと考えることは、決して全身全霊を投じての具体的な参究だとは言えない。漢の時代から隋・唐・宋・の時代を経て今日に至るまで、釈尊の説かれた光明が、眼で見えるもの、言葉で理解できるものであるとのみ理解 している人々がやたらに多い。

もし釈尊の説かれた光明と言うものを学びたいと思うならば、、単に仏教というものを経典の説明だけで説こうとする師匠に学んではならないし、たとえ「禅師」と言う名前で呼ばれていても、怪しげな訳の分からない説を説く人々の説明 を聞くべきではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生を含めて仏道家にお伺いしたいんですが、恋愛なんかをどうもお粗末に扱っている様な気がするんですが・・・。ですから大衆は離れて行くんですよ、おそらく。

先生
仏道は沢山の人を集める事が目的かどうかと言うとこれは疑問なんです。仏道と言うのはかなり高度の思想だから誰にもわかると言う思想ではないんです。誰もが好きになる思想でもない。これは甚だ残念な事だけれどもね。誰もが「わ-、素晴らしい」と言う感じで今は受け取られる思想ではない。

道元禅師が一箇半箇の人を養成すると言う事を言われたのは、仏道にはそういう性質があるという事を言っておられる訳です。道元禅師だってもちろん沢山の人に仏道を説きたいと言う気持ちは当然あっただろうけれども、沢山の人を集めるために教えを曲げると言う事は絶対にしないと言う確信はあったと思う。その事が「一箇半箇の真人を打出する」と言う言葉になって表れている。仏道を説く場合に、沢山の人に聞いてもらう事はもちろん必要だけれども、中身を曲げてまで人を集める事は絶対に必要ない。

だから私は人を集めるための言葉は一言も言わない。言葉の技術として人を喜ばせる事は必要はあるかもしれないけれども、中身を変えるという事は絶対にしない。また仏道というものは中身の変わるべきものでもないと思っている。だから仏道と言う思想を、これは本当だと思って学びたいと言う人だけしか集ってこない。それ以外は集ってこない。
集めようと思っても、集める事が出来ないと言うのが実情としてあると思います。

                            つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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