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正法眼蔵 光明 4

長沙景岑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

達磨大師が中国に行かれる以前には、仏教の教えに光明(輝かしさ)というものがあるという事を経典を通して頭では理解していたをかもしれないけれども、具体的に自分自身の眼を通じて体験して、なるほどこれが釈尊の説かれた光明かという事を直接に経験することはなかった。

この様に具体的に実際に釈尊の説かれた光明というものを経験することがなかったから、釈尊の説かれた光明というものが長いのか短いのか、四角なのか円いのか、つまりどんな様子のものかがさっぱりわからなかったし、その光明と言うものがどんな動きをするものかと言う事もわからなかった。

仏道というものを単に経典を通して文字を通して勉強している間は、坐禅と言う修行法を通だじて輝かしさと自分自身とが一体になる事を嫌っていたから、自分自身も光明であり、釈尊の教えも光明であるけれども、その両方が坐禅を通じて一体になるという事がなかったから、時間が経てば経つ程お互いの光明(輝かしさ)が遠く離れて、いつまで経っても出会う事がなかった。

光明と光明とがお互いに遠ざかっていたと言う事態そのものも、我々が住んでいる輝かしい宇宙の中における一つの事態であるけれども、両者が余りにも離れているために、我々の人生は光明そのものだと言う事には中々気づく事が出来なかった。




              ―西嶋先生の話―
    --つづき

ただそういう問題について理論的にはっきり詰めが行われていないと、左に行かなければならないときに右に行ってしまったりする心配がないかどうか。そうして左に行かなきゃならないときに右に行ってしまった場合に、やっと行き着いたというふうに本人は感じても、仏道と無関係のところに行ってしまっているというような心配がないかどうか。あるいは自分の止まるべき目的地をはるかに通り越してもっと先の方まで行ってしまっている場合がありはしないかどうか。確かに目的地に着いたという自信があっても、それが仏道の目的と別の目的であるというふうなことはありはしないかどうかと。

そういうふうなことで、ちょっと「大丈夫かな」という印象を持ったわけであります。ただそういうふうな漠然とした印象を持ったわけでありますから、そのお寺の修行がどうこう言うようなことでは決してないわけでありますが、それと同時に、仏道修行をしていく上においては、今日では坐禅をやることと「正法眼蔵」をお読むという事は欠かせないという感じを持つわけであります。

なぜ欠かせないかというと、我々は今日では、明治維新以来学校教育を受けて、物事を何でも理論的に考える訓練が行われているわけであります。仏道というもに関連しても、理論抜きに仏道と言うものは考えられない。だからそういう点では、今日の時代に生きている人々が仏道修行をやろうとするならば、やはり理論の裏づけというものがどうしても必要だという事があるわけであります。

そういう点ではと「正法眼蔵」を読みなら仏道修行をするという事が、今日仏道修行をやる上においては非常に大切なことであるし、目的地に着くためには不可欠の事柄だという事が言えようかと思うわけであります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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