トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 光明 1

「光明」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この「正法眼蔵光明」の巻というのは、どういうことを説いておられるかという事でありますが、「光明」というのは光とか輝きとか、そういう意味であります。今日われわれが光とか輝きというものを考えていくと、太陽の光であるとか、電気の光であるとか、蝋燭の光であるとか、物理的な光というものがまず頭に浮かんでくるわけであります。

ただ道元禅師がここの「正法眼蔵光明」という表題で説かれている問題は、単に物理的な光だけではない。そういう光も含んでいると同時に、我々の世界には物理的な光以外にも光があるというふうな主張が述べられているわけであります。この世の中にある光というものは蝋燭の光とか電気の光とか太陽の光とかという光だけではない。

じゃどういうふうなものがあるかという場合に、我々が日常生活でよく「今日は気分が明るい」という。「今日は気分が暗い」と言う。これは電気がついているとか電気がついていないとかという事と関係ない。ただ気持ちが明るいとか、気持ちが暗いとかというふうなこと。こういう言葉があるという事は、我々の人生の中においては、単に電気がついているいない、あるいは太陽が照っている照っていないとは無関係に明るさというものがある、暗さというものがあるという事の証明に他ならない。

この「正法眼蔵光明」の巻で道元禅師が説かれていることは、そういう意味での明るさ、暗さ、あるいは世の輝きこういうものを説いておられるというふうに見ることができるわけであります。こういう明るさというもの、輝きというものは仏教思想の中ではインドにおいても中国においても説かれているわけであります。そのことを道元禅師がこの巻で解説しておられるという事が言えるかと思います。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生からよく四諦論の話を承わり非常に素晴しいのですが、この説明は先生が初めて発表されたと承っているのですが、これは「正法眼蔵」を読んでいて・・・。

先生
そうです。「正法眼蔵」を読んでいますと、この四段階の考え方は頻繁に出て来るわけです。どこを読んでもこの四段階の考え方が出て来るわけです。道元禅師は自分の思想は、釈尊の教えにほんの一分一厘も付け加えていなし、釈尊の教えから一分一厘も取り去ったものはない、全く釈尊の教えと同じだという事を繰り返し言っておられるわけです。

そうすると、釈尊の説かれた四諦の教えと「正法眼蔵」の中に出て来る四段階の考え方とは同じものではなかろうかと言う考え方を持った。果たしてそれが事実かどうかをいろんな面からここ何十年か検討して来た訳だけれども、未だにどうも「そうではない」という証拠が出てこないという事が事実なわけです。
   
およそ昔から説かれている仏教思想をこの四段階の考え方を基準にして理解すると非常にはっきりわかる。それと同時に、この四段階の考え方を抜きにして仏教思想を理解しようと思うと、何がなんだか解からない、全く解からないという事があるわけですから、どうも仏教を理解していくためには、この四段階の考え方を基本にして考えていかざるを得ないと考えている訳です。


読んでくださってありがとうございます。よかったらクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-