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正法眼蔵 拍樹子 19

趙州従諗禅師と僧侶の問答について道元禅師の注釈は続きます。

それは趙州禅師以外の人の見る事の出来ない境地である。趙州禅師には趙州禅師としての独自の境地があり、その趙州禅師の独自の境地における空間というものがここでは説かれているのである。そして、空間が地面に落ちると言われているけれども、その地面もまた凡人とか聖者とかの区別した考え方で人間を二通りに分けた境地での地面と言う事ではなくて、また別個の地面があり、陰と陽と言う二つの性質に分析的に分けた地面ではなくて、そう言う考え方が届かない場所、趙州禅師だけがその場所に行ける地面というものがここでは説かれている。

この様な形で空間が地面に落ちる、この世の中の様子が一変する時期と言うものは、単に空間だけでなく太陽や月や山や川とかという問題を例にとっても同じ事であって、そういう時点の起きる場合というものは、やはり我々が辛抱強く努力することによってしか得られないであろう。単に待つという事だけでなしに、我々がそういう時期に到達するために仏道修行をするという過程を経ての事実であろう。誰が仏としての性質は例外なしに仏になり得るのだという事ができよう。

仏としての性質というものは、人が仏になった後の素晴しい様子と言うものを言うのである。しかしながら仏になる事と同時に、仏としての性質が具わると言う場合もあるであろう。その点では、この栢樹子の木と仏の性質というものは、言葉の発音は違うけれども、同時に発生し同時に実在するという事は必ずしも言えない。その実情というものを述べてみるならば、栢樹子の木と仏性との関係についても、それを言葉で「これこれだ」断定することのできないものがあるし、一体それが何なんだと言うことを仏道修行の過程で勉強することが必要である。

              「正法眼蔵栢樹子」
              1242年旧暦5月21日
              山城の国宇治郡の観音導寺院において衆僧に説示した。




              ―西嶋先生の話―

我々自身が色メガネをかけていろんなものを見ているというのがかなり顕著な我々の社会の実情だと思う。仮にここに昭和20年以前の新聞があったとすると、そこに書かれている論調というのは、今日の時代から到底想像もできないような論調でいっぱいになっている。そのことは今書かれている新聞の論調が20年先、30年先も同じように残っておるかどうかというと、これも中々疑問でね。

そうすると人間というのはその場その場の考え方であっちへ行ったり、こっちへ行ったり非常に変わっていくもんだという事が言えると思うんですね。その場合に何千年経っても変わらんようなものというのがかなり大事なことになるわけです。

その点では、趙州禅師の時代はもう1000年も前の時代ですけれども、その時に庭先に生えていた栢樹子の木といま日本で見る栢樹子の木とそう違わないだろうという事。そういう事と仏道を勉強するという事は関係あると思います。だから、社会情勢がどんなに変わっても、変わることのないようなものがあるとするならば、それを勉強しようというのが仏道の立場だと見ていいと思います。

だからみようによっては気の長い話でね。人によっては「眼先ついていきゃいいんだ。損しなきゃいいんだ」という事で、毎日変わるたびにクルクル、クルクル後追っかけて一所懸命努力する人もいるし――。世間の動きというのは大体そうですよ。だから世間というのは一所懸命「遅れないように、損しないように」という事で駆けずり回るわけだけどね。

それも大事だけれども、そういう流れの中で変わらないものを見ながら日常生活を一所懸命動いていくと結果が悪くないという事がある。「どこへ行ったらいいんだかよくわからないんだけど、まあ人が行くからそっちへ行きましょう」という事だと、方向が正しいうちは構わないけれども、おかしい方向でも「やっぱり皆さんが行くからついていきましょう。たぶん大丈夫でしょう」という事でついていくと、結果が案外悪いという場合があり得るわけでね。

そういう点では、どういう場面でも頼りになる考え方を掴みたいというのが仏道修行の一つのねらいだと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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